☆ 自由意思と決定論 ☆

井出 薫

 自由意思と決定論の問題は古代からの哲学の難問で今も解決を見ていない。

 古典物理学の世界では、物理法則は普遍的で初期条件が決まると未来はすべて決まる。量子論の登場で古典的な決定論は否定され、未来は確率的にしか決まっていないことが判明した。だが、それでも統計学的に決定されており、自由意思が介在する余地はない。古典物理学では初期状態Iが決まると、未来の状態Fはただ一つに決まる。量子論では、未来の状態はたとえばF1とF2の二つの可能性があり、F1になる確率とF2になる確率が与えられる。だが、観測すれば必ずF1かF2のいずれかになる。一見、ここに自由意思の可能性があるように思えるが、F1になるかF2になるかを人間は選択することができないため自由意思の介在する余地はない。

 それゆえ、世界が物理法則に支配されているとすると全ては(確率的に)決定されており、自由意思は存在しないことになる。現代人の多くは、自然法則、特に基礎の基礎である物理法則は絶対的なもので、誰もそこから逃れることはできないと信じている。だが、そうなると自由意思は存在しないことになる。

 一方で、このような考えは到底認めることはできない。決定論が正しく自由意思は存在しないのであれば、殺人者は殺人をするように定められていたのであり、自分の意思で殺人をしたわけではないことになる。ならば、殺人者に罰を与えることには正当性がない。刑事罰が正当化されるためには、該当の行為が意図的になされた、当人がその行為の違法性を認識していた、不可抗力ではなかった、最低この三つの条件が揃う必要がある。最初の条件は自由意思の存在を前提にしている。殺人者は殺人を自らの意思で選択したのであり、殺人を思い止まるという選択も可能だった、だから殺人罪に問われる。心神喪失状態の者は選択が不可能な状態(たとえば殺人を思い止まるという選択ができない状態)にあり、罪に問うことができない。だが、すべてが物理法則で決定されているならば、全員が心神喪失者と同様に選択が不可能な状態にあるから、罰することはできない。

 現代人は、物理法則の普遍性を信じているという点で決定論を支持し、犯罪者は罰せられるべきであると考えている点で自由意思の存在を信じている。だが、決定論と自由意思は両立しない(ように思える)。だとすると現代人は矛盾した信念を持っていることになる。

 この状況をどのように考えればよいのだろうか。いくつの考えがある。まず思いつくのが決定論を否定あるいは制限するという考えだ。たとえば、物理法則は人間の行為以外では普遍的であるが、人間の行為には適用できないとする。だが、この考えには難点がある。人間の行為は脳神経系の働きにより制御されている。脳は非常に複雑な器官であるが物質であることには変わりはない。だとすると、物理法則に従っていると考えられる。特定の薬物を服用すると寝てしまったり、幻想に囚われたりするという事実がそのことを裏付ける。脳の働きがすべて無生物界の自然法則に従っているという確かな証拠はない。だが、無生物界を支配する自然法則から自由である証拠もない。この問題には決着がついていないが、前者である可能性の方が高い。

 逆に決定論を支持し、自由意思を否定するという考えもある。スピノザやニーチェにこの思想がみられる。この立場に立つと、自由意思は幻想に過ぎないということになる。だが、この考えでは、先に述べた通り、犯罪者を罰することが正当化できなくなる。また、幻想だとしても、確かに人は「私は自由だ」という感覚を持つことがある。もちろん、このことは自由意思の存在を証明するものではない。だが、単なる幻想に過ぎないとは言い難い。自由意思があるからこそ、そういう感覚が生じると考えることもできる。

 ヘーゲル、マルクス、エンゲルス、彼らの後継者であるマルクス主義者の一部は、両者は両立可能だと主張する。その鍵は「自由とは意識された必然」という考えだ。つまり、あらゆることは基本的に決定されているが、その必然性を認識し、それに従い行為しているときには人間は自由だという風に考える。マルクス主義者にとっては、共産主義革命は歴史の必然であり、それを認識し、共産主義運動に参加し活動する時、人は自由だということになる。だが、この自由概念は疑わしい。ある人物が必然性を認識するか、しないかは必然的に決まっているのであり、本人の意思で選択できるわけではない。それゆえ、この立場は決定論の一変種に過ぎず、問題を解決しているわけではない。そもそも、この考えが正しいとしても、有限なる人間が世界の必然を悉く認識することは不可能で、その意味では意識された必然という考えは空想でしかない。教条的なマルクス主義者は共産主義は歴史の必然だと主張するが、それは決して証明されたことではない。それゆえ共産主義運動を支持し参加することが「意識された必然だ」という根拠はない。(注)
(注)必然であるということと、決定されているということとは、必ずしも一致しない。だが、この点については、ここでは議論しない。決定論と自由意思の議論をする際には、これらの間の差異が議論に影響することはないと考える。

 決定論と自由意思の問題は、論理的に完璧に解決することは不可能で、プラグマティックに解決するしかないと考える。法や倫理を考えるとき、私たちは、人間には自由意思があると前提して、議論を進める。この前提を否定すると法を定めることはできない。特に罰則を定めることは不合理になる。一方、物理学の研究をするときには、物理法則を決定論的な存在と前提する必要がある。それを否定すると、実験データを正しく評価できなくなる。たとえば100回同じ条件で同じ実験をしたとする。そのうち、1回だけ物理法則に反する結果が出たとしよう。そのとき、物理学者は、その1回は物理法則が成り立っていなかったとは考えない。条件設定に間違いがあった、実験装置が正常に動作していなかったなどと考える。つまり物理学者は暗黙の裡に物理法則の決定論的な性格を前提して研究をしている。さもないと物理法則に反するような結果が出るたびに、物理法則を否定することになり、研究は不可能になる。

 私たちは現実世界の中で、自由意思と、決定論を適当に使い分けて、うまく遣っている。それ以上のことを語ることはできない。人間は、世界の多くの事物を合理的に認識できる。だが、それでも、(いずれは認識できるようになると期待される問題も含めて)認識できないことの方が遥かに多い。決定論と自由意思の問題に悩まされるのは、この当たり前の事実を看過し、人間があらゆることを認識できるという、ありえない状態を前提して(つまり、あらゆる真理が目の前にあるかのように)議論を進めるからだと思われる。


(2023/3/18記)

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