☆ 犬は希望することができる ☆

井出 薫

 ウィトゲンシュタインは、犬が怒っていることを想像することはできるが、希望していることを想像することはできない、犬は飼い主が玄関にいると信じることはできるが、明後日帰ってくると信じることは出来ない、希望することができるのは、言語をマスターした者だけなのだ、と説く。

 しかし、犬が希望することができないという考えは間違いのように思える。確かに、犬に「君は私が明後日帰宅することを希望しているか」と問うても返事はない。ワンワンと吠えるくらいが関の山だ。だが、忠犬ハチ公は、飼い主の教授が帰ってくることを望んで毎日、渋谷駅まで迎えに行っていたのではないのか。今日ご主人は帰ってこなかった。でも、明日は帰ってくるに違いない。そういう希望を抱いていたのではないか。実は飼い主を迎えに行っていたのではなく、駅の近くには食べ物をくれる人たちがいたのでそれを目当てに通っていたという説もある。だが、たとえそうだったとしても、ハチ公は食べ物をくれると期待していたと言える。犬が希望することができないというのは、言葉を話すことができる人間だけが知的存在だという人間中心主義にウィトゲンシュタインが囚われていたからと考えることもできる。

 このような考えは、犬を擬人化しているだけで、正しい見解ではない。こう反論する者がいるだろう。確かに、ハチ公は教授が帰ってくると期待して駅に迎えに行ったというのは擬人法による表現に過ぎない。だが、それは、ハチ公は希望することができない、希望などしていないことを証明するものではない。犬ではなくAIを想像しよう。私はAIに、今日は外泊すると声をかける。AIは明後日までには帰宅しますよね、と念を押す。AIは私が明後日に帰宅することを希望していると言えるだろうか。言えないと考える。AIは希望しているのではなく、ただ、そう語るようにプログラミングされているに過ぎないと感じる。だから、明後日帰宅しなくても、AIが可哀そうだと思うことはない。一方、愛犬が外出時に寂しそうにしていると心が痛み、明後日には帰ってくると語り掛け、その約束が果たせない時には可哀そうだと思う。

 希望することができるかどうかは、言葉を話せるかどうかではなく、「希望する」という言葉を使用する広い意味での言語ゲームつまり言葉を介して行われる(言葉以外の振る舞いを含む)ゲームに、ある存在者が参入することができるかどうかで決まる。犬は確かに言葉をマスターしていない、することもできない。だが、私たちが希望する、期待する、望む、祈るなどという言葉を使用する言語ゲームの中に犬は参入することができる。私たちはそのゲームの中で、愛犬に家族のように語り掛け、約束し、愛犬が寂しがっていると想像する。一方、AIは言葉を使うことができるが、精々のところゲームの道具に過ぎず、ゲームに参入する存在ではない。愛犬が亡くなれば悲しく唯一無二の存在が失われたと感じるが、AIが壊れたら取り換えるだけで済む。犬の権利は支持するが、AIに権利を付与しようとは思わない(注)。以上のことを総合すると、犬は希望することができると考える方が適切だと言える。
(注)ただし、人間にそっくりなアンドロイドが登場した場合には、私たちは言語ゲームへの参入を承認する可能性はある。そして、その喪失を悲しく思うようになる可能性もある。言語ゲームは固定的なものではなく可変的なものなのだ。

(補足)
 ウィトゲンシュタインの議論は、言葉の意味とは、心の中にある何らかの観念だという考えを否定することにその主旨がある。私たちの多くは犬などの高等動物にも心があると信じている。高等動物の心の中には、希望とか期待とかいう言葉で表現することが適切なものがあると推測される。だが、言葉の意味とは、そのような心の中の観念で決まるものではない。犬は希望することができるという主張には、こういう心の中の観念が言葉の意味を決める、つまり言葉の生成に先立ち意味の源が心の中に在るという思想がある。だが、言葉の意味は、言葉に先立つ観念で決まるのではなく、それが現実の中でどのように使用されているかで決まる。ウィトゲンシュタインは、そう考え、犬は希望できないと指摘したと思われる。だが、AIの事例を考えれば分かるとおり、ウィトゲンシュタインはむしろ、犬も希望できるということを自らの思想の中で示している。人々は、愛犬を家族の一員として扱い愛情をもって接する。犬は単なる道具ではない。たとえ言葉を話すことができないとしても、犬は言語ゲームの参加者であり、その振る舞いに希望という概念を適用する。一方、AIは便利な道具に留まる。


(2023/2/26記)

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