井出 薫
「哲学的ゾンビ」外見は人間そっくりで、外部から観察できる振る舞いは完全に人間と同じだが、心のない存在をそう呼ぶ。哲学的ゾンビは身体の構造も完全に人間と同じで、人間か哲学的ゾンビかを区別することはできない。「君に心があるか」と問えば「ある」と答える。人と同じように喜んだり怒ったりする。落ち込んでいたり、嘆いていたり、ご機嫌だったりすることもある。だが、心がない。果たして、哲学的ゾンビは存在しうるだろうか(注1)。 (注1)「心」と言うか、「意識」と言うかで、論じる内容が異なってくることがある。本稿では「心」が実体で「意識」は「心」の働きという解釈で議論を進める。 心身二元論を支持するのであれば、哲学的ゾンビは当然に存在しうる。物理的には同じで、心があるのが人間で、心がないのが哲学的ゾンビと考えることができるからだ。心と身体がどのように相互作用するのかという難問があるが、少なくとも哲学的ゾンビの可能性を肯定することは容易い。 しかしながら、現代においては、心身二元論は主流ではなく、多くの者が唯物論を支持する。唯物論では、心と意識は脳神経系を中核とする身体という物質の活動の所産だと信じられている。唯物論では、哲学的ゾンビはありえないという立場と、哲学的ゾンビはありうるという立場の二つに分かれる。ただ、いずれも唯物論と整合させることは難しい。 最初の立場を取ると必然的に心とは物質的存在つまり自然法則に従う存在であり、意識はその働きだと考えることになる。そうでないと、物質界には自然法則に従う領域と、そうではない領域とがあり、かつ両者はその法則性が全く異なるにもかかわらず相互作用できることになる。だが、これは自然現象はすべてそれに先立つ自然現象で説明できるとする唯物論と矛盾する。それゆえ、哲学的ゾンビを否定するには、心とは脳神経系であり、意識はその働きであるとするしかなく、心脳同一説へと帰着する。だが、心脳同一説は心の持つ主観性を説明できず、また意識が因果的な連関よりも意味の連関に従うことを理解できない。 一方、哲学的ゾンビはありうるとする立場ではどうなるだろう。意識の源泉である実体としての心は存在せず、心とは要は意識のことであり、意識とは脳神経系の随伴現象と考えることで、一応唯物論と整合させることができる。つまり、意識自身には身体活動を引き起こす力はないが、とにかく存在はするという立場だ。それにより、随伴現象が存在しない者を哲学的ゾンビと解釈することができる。だが、ほとんどの者がこの説には納得しないだろう。なぜ意識なる随伴現象が生じるのか説明できないからだ。それゆえ、随伴現象が存在しない可能性があると合理的に判断することもできない。 このように、唯物論を支持する限り、哲学的ゾンビが存在しうるかどうかは決めることができない。どちらの立場を取っても不合理な帰結に至る。そもそも、哲学的ゾンビとは唯物論の不備を指摘するためにチャーマーズなどの哲学者が構想した存在だ。それゆえ唯物論から哲学的ゾンビの可能性の是非を論じることが出来ないのは当然とも言える。しかし現代人の多くは、意識するしないに関わりなく唯物論的な立場を採用している。そして、それは科学や技術の成果を考えるとき決して不可解なことではない。それゆえ、哲学的ゾンビの可能性の是非は決定不能と言わなくてはならない(注2)。 (注2)それゆえ、哲学的ゾンビという思考実験は唯物論の不備を指摘するものではあるが、唯物論を否定するものではない。 了
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