☆ 時空〜モデル・道具と認識・実践 ☆

井出 薫

 カントは、直観的感性の形式として時間と空間を取り上げた。ニュートン的世界像では、観測者の運動状態や物質の性質とは無関係に存在する絶対時間とユークリッド幾何学が成り立つ絶対空間という容器の中に、様々な物質が存在し運動している。カントは、このニュートン的世界像を確実な真理とみなし、それが実在世界に内在する原理ではなく、人間の認識能力に備わった特性だと考えた。

 しかし、特殊相対論により、時間と空間は絶対的なものではなく観測者の運動状態により変化するものであり、また、時間と空間は分離できるものではなく4次元時空として統一的に把握するべきものであることが明らかになった。さらに、一般相対論により時空の幾何学と物質の状態は独立したものではなく、時空の幾何学は物質の状態により変化すること、逆に時空の幾何学が物質の状態を決めると考えることもできることが明らかになった。つまり、時空と物質は切り離すことができない。また、物質が存在する場の幾何学はユークリッド幾何学ではなく非ユークリッド幾何学であることが証明された。このように相対論は、時空と物質を切り離して考察することはできず一体化された存在として考察する必要があることを示した。このことは、ニュートン的世界像とユークリッド幾何学を絶対的な真理と考え構築されたカント哲学に再考を促す。

 カントは、ユークリッド幾何学とニュートン力学の世界像をアプリオリな真理だと考えた点では間違っていた。しかし、カントが時間と空間という形式で直観的に世界を捉えることが認識の始まりであると考えたこと自体は間違いではない。私たちは世界を科学的に認識しようとするとき、物質世界は変化すること、その変化を時計を使って計測すること、物質は広がりを持つこと、広がりを物差しなど目盛を使って計測すること、それが私たちの科学的認識の始まりになる。そのことは、科学理論が進化しても変わることはない。それは科学的認識だけではなく、広く日常で人々が世界を認識するときに使用する方法でもある。音楽家はメトロノームを使う。画家や彫刻家、建築家は物差しを使う。

 認識と実践は、対象に即したモデル・道具の生成と使用として現れる。モデル・道具は多様で一つの抽象的なモデル・道具で統一されることはない。だが、それでも、時間、空間、両者と不可分な物質という要素をもってモデル・道具が生成され使用されることは間違いない。問題はモデル・道具の位置づけにある。

 カントは認識能力を人間という主体に備わる普遍的な性質と考えた。だが、そこには矛盾がある。人間という主体はあくまでも個々の主体であり普遍ではない。フッサールはカントの難点を解消するために、純粋意識への現象学的還元により認識を厳密に基礎づけようとした。だが、カントの難点を克服することはできなかった。フッサールの純粋意識への現象学的還元は、主体をエポケーすることで、普遍へと繋がる通路を確保する試みだった。だが所詮意識は意識、私の意識以外に確実な意識はない。だから現象学では他者問題(私の意識の外に他者が実在して、その者も意識を持つことをどうやって導き出すかという問題)が解きがたい難問になる。モデル・道具という観点からすると、カントもフッサールもモデル・道具が主体に属するものと考えていたと言える。

 モデル・道具は認識する対象のモデルであると共に実践における道具でもある。道具は主体から分離可能であり、それ自身が対象でもある。そして、認識と実践は切り離すことはできず絶え間ない連鎖の中に存在する。モデル・道具は認識においては対象のモデルとして生成され、実践においては対象に働きかける道具として使用される。それは主体に属するとともに客体(対象)にも属する。つまり、それは認識する主体の生得的観念ではない。モデル・道具は主体の性質に依存しながらも、同時に対象の性質に依存する。そして、モデル・道具は対象とは解消できない差異がある。それは主体の在り方に影響されるからだ。また、主体との間にも解消できない差異がある。それは対象の在り方に影響されるからだ。そして、私たちの認識や実践がモデル・道具であることから、主体と客体(対象)が同一になることは決してない。

 時間と空間を認識の始まりにあるものと考えることは間違っていない。だが、それは主体や客体に属するものではなく、双方に属し媒介するものとして存在する。


(2023/1/18記)

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