☆ 価値形態論の可能性と表券主義 ☆

井出 薫

 マルクスは『資本論』の価値形態論で貨幣の謎を解くと宣言した。価値形態論は単純な価値形態から始まる。
(A)20エレのリンネル=(B)一着の上着:「20エレのリンネルは1着の上着に値する」と読む。
ここで「A=B」は「B=A」を導かない。Aは相対的価値形態、Bは等価形態と呼ばれ、Aは商品の価値を、Bは商品の使用価値を内容とする。この式は数学的な等式ではない。また価値と使用価値が対置されていることは矛盾とも言える。さて、この単純な形態形態は展開された価値形態に進む。
 A=B、A=C、・・、A=G、・・・、
 D=E、D=F、・・、D=G、・・・、
   ・
   ・
 K=A、K=C、・・、K=G、・・・、
 L=B、L=D、・・、L=G、・・・、
この形態は一つの相対的価値形態にある商品を複数の等価形態にある商品と対置することで、交換の可能性を増やす。しかし、価値と使用価値の矛盾は解消されていない。ここで上の一連の式で、Gがすべての式において等価形態として現れていることに注目してほしい。現実の商品交換を想定すると、誰もが欲しがる商品がGだと考えてよい。ここから、一般的価値形態が導かれる。
 A=G、B=G、・・、K=G、L=G、・・
ここで、Gは一般的等価物と呼ばれる。ここでも価値と使用価値を対置するという矛盾が残っているように思える。だが、Gの使用価値が価値を表現し実現する特殊な存在として、他の商品から明確に区別されるとしたら、どうだろう。1グラム=1センチメートルは矛盾だが、バネ測りのバネの伸び(センチメートル)は測定対象物の重さ(グラム)を示す。このことを参考にすれば、一般的等価物が測定器(価値を測定するという使用価値をもつ)の役割を果たすと考えることで、価値を示す相対的価値形態と使用価値を示す等価形態の矛盾は一般的等価物の登場で解消される。ここで一般的等価物として金などの貴金属が用いられるとき、それをマルクスは貨幣形態と称する。これはマルクスが『資本論』を書いていた時代は金本位制だったことが影響している。現代の管理通貨体制においては、貨幣=一般的等価物は金融機関の口座の残高という数字になっている。口座に残金があれば、クレジットや振り込みなどで何でも買える。紙幣が必要な時だけ現金を下ろせばよい。

 マルクスにおいては、展開された価値形態から一般的価値形態(さらには貨幣形態)へと展開することは、労働価値説に基づく等価交換を前提することで可能とされている。つまり相対的価値形態にある商品も等価形態にある商品も同じ生産に必要な社会的平均労働時間で規定される価値を持つ商品と考えられている。その結果、両者は等価交換される。だから、一般的価値形態への展開において、相対的価値形態と等価形態は一般的等価物を通じて位置を変えることができ、価値と使用価値の矛盾は自動的に解消される。だが、労働価値説・等価交換は現代においては根拠が乏しい思想であり、また、上式の展開からも分かるとおり、価値形態論は論理的にも完全ではない。と言うのは、展開された価値形態で同じ商品が複数の価値形態において共有されていることが、一般的価値形態への入口になっているのだが、そもそもそのような共通する商品が存在する保証はない。また、存在するとしても一つに定まるとは限らない。さらに、一時的に共通する商品が登場しても、それが長期に亘って共通する商品として存続する保証はない。それゆえ、マルクスの価値形態論において、展開された価値形態から一般的価値形態への転換は論理的な可能性に留まっており、それだけでは現実的な形態へと転換することはできない。貨幣形態が実現するためには、マルクスの論理とは別の者が必要になる。

 その役割は国家が果たす。国家は経済を統制することを目的に、何らかのものを貨幣として認定し、そこに税制などの法秩序とそれを維持する国家権力を通じて貨幣に強制通用力を付与する。これにより、マルクスの価値形態論では論理的な可能性に留まっていた「展開された価値形態から一般的価値形態(並びに貨幣形態)への転換」つまり貨幣の登場が必然的かつ現実のものとなる。逆に言えば、国家という重しがないと、貨幣形態は実現されない。たとえ一時的に貨幣もどきが市場で通用していても、すぐに擾乱が生じ、貨幣形態は崩壊する。国家があって初めて貨幣が貨幣として社会全体で機能する。

 このように、貨幣制度において国家の役割が中核にあるとする思想を明確に表明したのがドイツの経済学者クナップで、1905年の著作『貨幣の国家理論』(翻訳、日経BP社、2022年11月)で、彼はそれを表券主義という名称で呼び、貨幣は貴金属であるとする金属主義を批判した。当時は、今と違い金本位制だったこともあり、貨幣とは物々交換から始まったとする思想が強かった。金属主義では貨幣は商品貨幣であり、それ自身で商品としての価値を有する。一方、表券主義では、貨幣は商品としての価値など不要で、必要なものは国家の信用と強制力を有する法秩序であり、両者が存在すれば貨幣は信用貨幣であればよい。事実、現代の貨幣は単なる数字であり商品としての価値は存在しない。

 纏めるとこうなる。マルクスの価値形態論で貨幣形態の論理的可能性が導かれる。但し、可能性と現実性の間にはまだ溝がある。可能性が現実になるにはマルクスの論理だけでは不十分で、それを補うものが必要となる。それが国家であり、クナップの表券主義だと言ってよい。価値形態論と表券主義により、貨幣が現実化する論理的な根拠が明らかになる。さらに、表券主義から、信用ある国家が存在すれば、貨幣の具体的な形態は貴金属である必要も、紙幣である必要もないことが帰結する。事実、現代では貨幣は実質的に口座の数字になっている。海外では紙幣の廃止まで検討されている。

 なお、クナップの表券主義だけで十分でマルクスの価値形態論は不要という意見があるかもしれない。だが、国家が貨幣制度を制定するためには土台となるものが欠かせない。国家と言えど無から有は生み出せない。それが、価値形態論における、展開された価値形態の図式で共通項となる商品Gと考えることができる。それゆえ、表券主義だけでは不完全で、完全な理論を構築するにはマルクスの価値形態論が必要となる。


(2023/1/2記)

[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.