井出 薫
技術という言葉は多義的で、技術と呼ばれるものは無数にあり、それを包括的に議論することは難しい。ただ、技術にはいくつか特徴がある。 まず、技術は必ず人と関わる。人間以外の動物にも技術という言葉が使われることがあるが、比喩的なものに過ぎない。また自然の技巧というような表現が使われることがあるが、これは自然に超越者の存在を投影し、そこに技術を見るのだが、それもまた比喩に過ぎない。それゆえ、技術を論じるときには、人との関りを探る必要がある。 また技術は必ず何らかの対象を有する。たとえば、素材、道具、設計図、操作する対象、関連する知識などが該当する。技術が人だけで閉じることはない。技術を知として捉えるのであれば、それを頭の中に閉じ込めることはできる。しかし、対象との関りがない限り、それは空想に過ぎず技術ではない。 技術は人と対象を含むからと言って、人=主体と対象=客体として、主体/客体という二元論で技術を論じることは適切ではない。技術においては、人自身が客体化することがあり、また対象が逆に人を支配することがある。身体が技術の対象となることはごく普通であり、医師や看護師だけではなく、人を相手にする職業はすべて技術の範疇にある。スマホは意思を持たないが、多くの場面において人を支配し、スマホなしでは落ち着いていられないという者が今や多数存在する。このように技術は人と対象を含むが、主体/客体という図式では理解することができない。 技術は人を含むが、人をどう捉えるかは恣意性がある。人を精神と身体との二元論で論じることもできるし、精神とは身体の活動の所産であるとして身体にのみ着目して論じることもできる。この点については、課題の性質によりどちらを用いることが適切かが分かれてくる。生物学では、精神は比喩的に使われるだけで、原則的に(人間以外の生命体を含めた)身体に着目して研究が進められる。文芸評論では行為が重要になる。行為は精神性と身体性の両面を持つから、必然的に精神と身体という二元論的な視界を持つことになる。技術を論じる場合は、技術が対象を含み、それが必ず最終的には物質的なものとなるか、物質を介して現れることから、身体を重視することになる。また、身体は主体であり客体でもあるという両義性を持つがゆえに、技術を論じるには都合が良い。ヘーゲルのように精神もまた主体・客体の両面を持つものとして扱うことができるが、技術の持つ具体性と物質性を考慮すると、ヘーゲル的な視点を取ることはできない。それゆえ、とりあえず、人とは身体を意味するものとして議論を展開する。精神は必要に応じて二次的に議論されることになろう。 それゆえ、技術の哲学では、身体と対象を基本的な要素として議論が展開される。だが、先に述べた通り、単純な二項図式(主体/客体)では技術を理解することはできない。身体と対象を含む「場」を考慮しなくてはならない。そして、それを通じて、技術はその役割を果たしていく。だが、ここで場は何だろうか、また、技術の役割とは何であろうか、という二つの問題が出てくる。先に述べた通り、人間を除く自然には技術を見出すことはできない。その意味では技術が機能する場は社会だということができる。だが、一方で、技術の対象は、多くの場合、自然であり、また身体には自然的存在としての側面がある。それゆえ、場を社会に限定することはできないし、自然に限定することもできない。また、技術を通じて、社会と自然が循環するという面もある。そこで、場としては、社会と自然を共に包含する「存在」を指定することとする。次に技術の役割だが、通常、人の何らかの目的を果たすことと定義される。だが、技術に目的という観念論的な存在を持ち込むことは、身体に着目し精神を二次的なものとして退けておいたことと矛盾する。目的とは、私たちの欲望、期待などを満たす条件を表現する。だが、欲望や期待などがまた説明を要する概念となる。こういう方向で突き詰めていくと、どうしても精神というものを援用せざるを得なくなる。そこで、見方を変えて、目的なる言葉で意味されるところの者は、現時点では実現されていないものであることに着目しよう。なお、放置すると劣化するものを劣化しないように工夫することも「現時点では実現されていないもの」に含まれる。そうすると、出てくるものは時間となる。つまり、技術の役割は、(人為を加えない場合に自然に発生する変化とは異なる)時間的な変化を身体的、社会的、自然的に生み出し、人または社会の維持・発展をもたらすものと表現することができる。維持とは恒常性の実現であり、発展は量的拡大又は質的な変化を意味する。これにより、精神と密接な関係を持つ目的概念ではなく、身体と密な関係を有する時間的変化の概念へと移行することができる。 こうして、技術は、存在という場に在り、時間的変化をもたらす機能を有し、身体としての人と対象という存在者を有する領域を意味するものと了解することができる。これが、技術を哲学的、根源的に論じるための出発点となる。 了
|