☆ 自由主義、社会主義、国家主義 ☆

井出 薫

 自由主義か社会主義かという論争がなされることがある。そして、今の日本人の多くは社会主義を嫌い自由主義を支持する。だが、そこには誤解があると感じられる。

 社会主義を嫌う最大の理由は、社会主義という言葉が旧ソ連・東欧の共産圏や、現在の中国共産党が統治する中国をイメージさせることにあると考えられる。だが、これらの国は社会主義というよりも国家主義という方が相応しい。

 社会主義と国家主義は異なる。社会主義は個人の自由を否定する思想ではなく、個人の自由と社会全体の利益との間に相反関係が生じたときに社会全体の利益を重視する立場だと言える。一方、国家主義は、国家の利益を個人の自由に優先させる。中国は法律を作り香港市民の自由を制約し民主派を政治から排除した。それが「中国社会全体の利益になる」というのが中国共産党の言い分だが、実際は、批判勢力の排除を目的としたとしか言いようがない。たとえ、それが実際に中国社会全体の利益に適っているとしても、共産党が一方的に定めた法律で国民の自由を制約できるような体制は社会主義ではなく国家主義と言わなくてはならない。なぜなら、社会全体の利益の中には、人々がみな自由であることが含まれるからだ。

 社会主義には様々な形態が在り、国家主義もその一つと言えなくはない。だが、社会主義=国家主義ではない。現在の日本国憲法と大日本帝国憲法(明治憲法)を比較することで、それを示すことができる。明治憲法でも言論の自由や信教の自由など個人の自由が認められていた。また複数政党制も存在した。だが、それは法律が認める範囲内に限定されていた。そのために治安維持法のような法律を制定することで、容易に特定の思想や活動を抑圧できた。一方で、現行憲法では、言論の自由、結社の自由などの自由は他人の権利を侵害しない限り、破棄できない権利として認められている。そして、それを法律で制約することは、公共の福祉のために不可欠であると判断されない限り、認められない。選挙で選ばれた国民の代表者である議員からなる国会でも基本的な人権を制約することはできない。自由の権利は国家権力を超えている。それゆえ、少なくとも憲法の精神が尊重される限り、日本は自由主義と言える。だが、自由の権利は絶対に無制約という訳ではない。権利行使に当たっては、濫用の禁止、公共の福祉に貢献するように行使する責務が憲法で規定されている。犯罪が許されないことは言うまでもなく、他人の権利を最大限尊重し、それを侵害しないことが義務付けられている。その点では、25条の生存権の存在などと合わせて、現行憲法には、国家主義ではない社会主義的な側面がある。米国のサンダース上院議員は民主社会主義を標榜するが、サンダース議員の政策は憲法を変えることなく日本でも実行することができる。

 このように、自由主義と社会主義は必ずしも相反しない。ただ、権利の制約の根拠となる公共の福祉をどの範囲まで認めるかで、議論が分かれる。たとえば、累進課税をどこまで強化できるか、感染症流行時のロックダウンや緊急事態における権利制約をどこまで認めるか、富の公平な分配のためにどこまで経済的自由を制約できるか、こういう点で自由主義者と社会主義者では意見の相違が現れる。サンダース上院議員は、社会的弱者の救済と富の公平な分配を重視し、富者への課税強化を訴える。そして、そのことを以って、彼は自らを社会主義という。米国の若者にはサンダースの支持者が少なくない。そのことは社会主義を認めることでもある。

 このような社会主義観に異論を唱える者もいるだろう。そういう者たちは、社会主義とは国家が社会の進むべき道(たとえば共産主義建設)を決め、国民にそれを遵守させるという思想であり、それは必ず国家主義に通じると考える。しかし、このような社会主義観には同意できない。自由主義と言っても、国家が存在する限り、国家は社会の進むべき道を国民に提示し、それに基づき社会を主導することに変わりはない。そして、自由主義を支持する国民も、その大多数は国家が進むべき道を提示し、そのために必要な政策を実行することを期待している。国家の介入を一切排除する自由主義は無政府主義に行き着くしかない。だが、無政府主義が上手く行くはずはなく、事実、無政府主義的状態(=非常に混乱した状態)になることはあるが、安定した無政府主義社会は歴史上、原始時代を除いて、おそらく一度も存在したことがない。米国の哲学者ノージックのような急進的な自由主義者でも最小国家(夜警国家のような存在)の必要性を支持している。こういう事実を考慮すれば、自由主義と社会主義の差は多くの者が考えているほど大きくなく、むしろ、安定した自由主義は社会主義に近く、寛容な社会主義は自由主義に近いと言える。自由主義と国家主義は明確に対立するが、自由主義と社会主義は共存することができる。それゆえ、社会主義とは国家主義あるいは共産主義の別名だとする社会主義観は妥当な考え方とは言えない。

 このように考えていけば、社会主義を見直す者が多く出てくると予想する。少なくとも社会主義を毛嫌いする者は減るだろう。そして、公共の福祉の範囲に関して言えば、現代社会の重要かつ解決が容易でない諸課題、たとえば環境問題、格差が生む社会の分断、ある程度自由を制約しないとヘイトやフェイクが蔓延しかねないネット社会、こういう課題を考慮する時、社会主義的な発想が必要となることは間違いない。いずれにしろ、社会主義を独断的に拒否するのではなく、それが含むところの意義を冷静に吟味する必要がある。そして、左派的な野党やそれを支持する左派的な言論人は恐れることなく、社会主義という言葉を使うべきだと考える。


(補足1)  この考察を見ると、そもそも自由主義と社会主義という区別は無意味になるのではないかと思う者もいるだろう。確かに、理想論的には最良の自由主義は最良の社会主義でもある。『共産党宣言』は、共産主義革命により、個人の自由な発展が共同体の自由な発展に不可欠であるような社会が実現すると宣言している。このような社会は理念的には考えられうる。しかし現実的には実現不可能と言わなくてはならない。感染症対策としてロックダウンや緊急事態宣言の是非を論じるとき、個人の自由から出発して制限の限界(制限の上限)を定めようとするか、公共の福祉から出発して制限の限界(制限の下限)を定めようとするかで、やはり結論に違いが出てくると考えられる。前者は自由主義であり、最大限個人の自由を尊重し制限を最小に留めようとする。後者は社会主義であり、公共の福祉、感染症の場合であれば、感染拡大防止を重視することになる。現実的には、この両極から、自由主義者と社会主義者が共に妥協できる施策を探ることになる。共にフィフティフィフティな妥協案においては、自由主義者と社会主義者は合意できる。しかし、いつも妥協案が成立するという保証はない。累進課税の限度などの問題でも、妥協案はなかなか成立しない。それゆえ、自由主義か社会主義かという議論は常に残る。大切なことは、両者が歩み寄る必要があることを双方が了解することだ。そして、それができれば、両者の差異は残るものの共存と協調が可能となる。

(補足2)  自由主義と社会主義という分類の他に、政治体制については民主主義と非民主主義(独裁、専制、貴族制など)、経済体制については資本主義と共産主義というような様々な社会体制の分類がある。自由主義は、徹底すれば、政治体制としては民主主義か無政府主義に至るだろう。社会主義は、徹底すれば、経済体制としては共産主義か公共の福祉のために経済的自由を制約する修正資本主義またはマルクス・ガブリエルが提唱する倫理的資本主義に至るだろう。しかし、社会主義は本稿で論じてきたことから分かるとおり民主主義と矛盾しない。少なくとも寛容な社会主義は必ず民主主義になる。また、自由主義が左翼的な無政府主義に至れば、その経済体制は共産主義になる。つまり、自由主義と社会主義、民主主義と非民主主義、資本主義と共産主義という様々な分類の間の関係は簡単には整理できない。

(2022/11/16記)

[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.