井出 薫
功利主義の祖と言われるベンサムは、「最大多数の最大幸福」を道徳と立法の原則とした。ベンサムは、幸福を快と苦の差として定義し、幸福量を計測できるとした。快、苦の感じ方は人それぞれであり、幸福量を計測できるとは信じがたい。だが、とりあえず、各個人の幸福量Hが功利主義的な観点からどのように定式化されるかを検討してみる。 まず、各人自身の行為が快と苦を生み出す。各人の行為をx0とする。Hはx0の関数になる。しかし幸福は自分の行為だけでは決まらない。人に親切にしてもらえれば幸福量は増す。他人の行為をxn(nは1から全人口Nまで)とすると、Hはxnの関数でもある。さらに、贔屓の球団が勝利すると嬉しい、政府が良い政策をすれば幸福になるなど、諸組織の活動も幸福量に影響する。これをym(mは1から関連する組織の全数Mまで)とすると、Hはymの関数でもある。さらに、社会の在り様(平和で社会秩序が安定している、福祉と社会保障が充実している、自由がある、経済が成長している、格差が小さい、環境がよい、など)が個人の幸福に影響する。それゆえ、社会の在り様をcとすると、Hはcにも依存する。 これらを総合すると、Hは次のようになる。 H=H(x0、xn、ym、c) だが、幸福量を考えるとき、瞬間的な快や苦ではなく、時間的な広がりを以て計測する必要がある。肝臓が悪く、アルコールを禁止されている呑兵衛は、アルコールを飲むとその瞬間はより多くの快を得ることができるが、長い目で見れば病気を悪化させ、より多く苦しむことになる。それゆえ、各人の幸福量を考えるときには、短い時間ではなく、長期に亘る総量を計測する必要がある。つまり、Hの積分値を求める必要がある。各人の置かれている環境にもよるが1年から数年の期間で積分する必要があろう。さらに、他人の幸不幸が自分の幸不幸に影響することも考慮する必要がある。子どもが幸せになれば親は嬉しい。家族ではなくとも、他人が幸せになることを喜ぶ者は多く、そのために自分の苦を耐えることができることもある。一方で、他人の幸福が妬みや僻みの原因になることもある。それゆえ各人のHは他人のHにも依存することになる。そこで、各人の幸福量をHnとすると、 Hn=∫Hnt(x0,xn、ym、c、Hm)dt となる。Hmはn以外つまり他人の幸福量を意味し、Hntはある瞬間の幸福量を意味する。そして、Hnをすべてのnについて和を取ることで社会全体の幸福量が計測できる。 もちろん、この考察からすぐに分かるとおり、現実的にはこのような計測は不可能で、また事前に幸福量を予測することも不可能と言わなくてはならない。それゆえ、最大多数の最大幸福が道徳や立法の基本だとしても、どのような状態が最適かを決めることはできないし、事前に最適状態を実現するための最適な計画を策定することもできない。 だが、ベンサムの思想が無意味だということではない。ここで展開した考察から、様々な派生的な思想を議論することができる。ミルはベンサムの功利主義を支持しながらも、ベンサムを、高級な快と低級な快とを区別していないとして批判する。「満足した愚か者よりも不満足なソクラテスの方がよい」とミルは主張する。たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチが、モナリザを描いている時間を飲酒に費やして同じだけの快を得ることができたとしても、モナリザを描くことの方が高級な快楽だから、そちらの方が良いとする。これは同意できる見解だろう。ここで示してきた議論を使えば、高級か低級かは、他人の幸福への貢献度で評価できると解釈される。つまり、高級な快は他人の幸福量を増す。優れた芸術や学問は自分の幸福だけではなく他人の幸福も増す効果がある。それゆえ、ミルの批判は、必ずしもベンサムには的中しない、ベンサムの思想の中にすでに織り込み済みと解釈することができる。また、各人の行為に着目するのではなく、社会に存在する規則に着目し、全体の幸福量を向上させるような規則が望ましいとする規則功利主義という立場があるが、これも幸福量の式でymやcにそれが表現されていると捉えることができる。 ベンサムが提唱する幸福量の計測は非現実だと言わなくてはならない。だが、幸福量が計測可能と考える思想には、ミルの指摘する高級な快と低級な快、規則功利主義をも含む思想的な広がりがある。ベンサムが現代においても功利主義の原点にあると言ってよい理由がここにある。 了
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