☆ 対象、実在、モデル・道具 ☆

井出 薫

 物理法則は実在(Reality)するのか。物理法則で記述されるような物理現象は実在する。だが、物理法則は物理現象を包括的に把握するために人間が構築したものであり、実在する訳ではない。宇宙のどこを観測しても一般相対性理論は見つけられない。また、古典力学の運動方程式は、相対性理論や量子論の近似的な理論と考えられている。運動の速度が真空中の光速度よりずっと小さい世界つまり光速度を無限と考えることができる物理系では相対論は古典力学とほぼ同じ結果を導く。また、プランク定数を近似的にゼロと考えることができるマクロ系では量子論の帰結はほぼ古典力学のそれに等しくなる。要するに物理法則は、物理現象を包括的に理解するために人間が使うモデル・道具の一つなのであり、実在者ではない。

 しかし、さらに深く考察すると、物理現象は実在するという単純な思想は必ずしも正しいとは言えないことがみえてくる。まず、個々の物理現象、たとえば地球の公転運動は実在すると言えるのか。地球は確かに実在する。だが公転という運動は実在するのではなく、人間が地球と太陽系を理解するためのモデル・道具と捉える方が適切に思える。地球は「これだ」と指示することができるが運動は指示できない。運動を表現するには空間と時間という概念が欠かせない。しかし、時間は「これだ」と指示することはできないし、空間も漠然と広がりを示すことはできるが、地球のようにこれと指示することができるわけではない。運動は実在者というよりも構成されたモデル・道具とみる方が相応しい(注)。では、実在者は地球という物体だという理解でよいのだろうか。ここにも疑問がある。地球と地球以外の残りの宇宙とは明確に区別できるわけではない。大気圏と大気圏外の境界は便宜的に定められているに過ぎない。さらに、地球は閉じた物理系ではなく、太陽など宇宙からの電磁エネルギーや宇宙線が絶えることなく降り注いでいる。また、逆に地球からも電磁エネルギーや微量だが物質が宇宙へと放出されている。このように地球の定義には恣意性があり、厳密に言うと、「これだ」と指示できるわけではない。それゆえ、人間が地球とそれ以外を区別するような物理系を用いて天体物理現象を理解しているに過ぎないと解釈することもできる。そう考えると、地球もまた実在者ではなく認識のためのモデル・道具ということになる。ただ、地球というモデル・道具は、公転運動や運動法則に比べると、実在者という性格を強く有すると言うことはできる。
(注)運動が実在者であり、そこから時間と空間というモデル・道具が構築されたと解釈することもできる。それでも、運動は時間と空間というモデル・道具なしには表現できないということを考えると、実在者とは言い難い。

 このような考えは、世界とはモデル・道具の世界であり、モデル・道具の先に想定される対象(Object:客体、客観などとも呼ばれる)は実在しないという思想に繋がることにならないだろうか。つまり世界とは観念の総体であり、それ以外には何も存在しないという観念論に陥るのではないだろうか。筆者はモデル・道具の先にある対象は実在すると考える。ただ、人間の認識と諸活動においては、それは常にモデル・道具として把握され、使われる。そして、対象とモデル・道具の間には解消されない差異がある。多くの自然法則が近似的にのみ正しいことや、観測や実験結果は常に誤差を伴うものであることがモデル・道具と対象の間の解消できない差異の存在、そして対象の実在を示唆する。

 だが、このような考えはカントの認識論と同じではないだろうか。カントは物自体は認識できず現象界だけが認識できるとした。カントは物自体が実在することを肯定する。ただ、それは可想界に属し認識できないと考える。カントの思想で、物自体を対象と言い換え、現象界をモデル・道具と言い換えれば、筆者の思想はカントのそれに等しいと見えるかもしれない。だが、それは違う。筆者は対象を認識できないと考えない。対象はモデル・道具により認識される。カントは物自体は認識できないとするが、それは私とあなたは違うということでしかない。完全ではないが、私はあなたを理解できるし、あなたは私を理解できる。対象はモデル・道具で認識されるのであり、不可知の存在ではない。そもそもカントがこのように考えた背景には、カントが認識を静的に捉え、モデル・道具のモデル面でしか評価していないことがある。その結果、モデル・道具の先にある対象を不可知の存在だと思い込む。しかし、人間の認識は常に実践と結びつき、実践は認識と結びつく。だからこそモデル・道具なのだ。このあたりのことは、ヘーゲルにより指摘され、それを継承したマルクスとエンゲルス、プラグマティストのデューイなどにより正しく理解されている。

 さて、自然界については、このような対象、実在、モデル・道具の理解は正当だとしても、社会についても同じように考えることができるかという問題がある。経済法則は、経済現象を包括的に把握するためのモデル・道具と理解してよい。ある財Xの供給が減少すればXの価格が上昇する。これは需要供給と価格に関する経済法則の一事例と考えることができる。しかし、社会における存在は自然におけるそれと異なり、個別具体的な存在でも、人間が社会的に構成したものという性格を必ず有する。商品が商品であるのは市場経済を前提にする。市場もまた財の交換を慣習とする共同体を前提とする。個々の財が商品となり価格を持つのは、貨幣の存在とその価値を保証する国家なり何らかの権力を前提とする。国家、組織、権力、その他およそすべての社会的な概念は社会的に構成された存在であり、地球のようにそれ自身で「これだ」と指示できるようなものではない。「氏名xxx」という人物は、その身体と同一ではなく、そこに負わされた様々な社会的諸関係により規定される。そして、氏名がその典型であるが、社会的な概念の多くは便宜的なものでしかない。「商品Xは1キログラムだ」と「商品Xは1万円だ」は性格が異なる。商品Xは劣化しない限りは1キログラムのままだが、商品Xの価格は交換のたびに変化する。社会現象は氏名や価格などのように便宜的な概念により記述され分析される。それゆえ、自然界のように、モデル・道具の先にある対象を想定することが意味をなさない可能性がある。つまり、そこでは、モデル・道具と対象を分離することはできず、モデル・道具そのものが対象となりえることから、モデル・道具=対象であり、その性質は自然と同じ意味での実在とは言えないということも考えられる。

 自然科学と社会科学では同じモデル・道具であっても、その性格は、対象が自然と社会に属するということから大きな性質の違いがある。この点についてはより深い考察が必要となるので、別の機会に論じる。


(補足)  筆者は、数学とは、もっぱらモデル・道具を対象とし、モデル・道具の操作に関するモデル・道具と解釈できると考えている。

(2022/9/16記)

[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.