☆ 絶対に確実なことはあるか ☆

井出 薫

 「私は私の歯が痛いことを知っている。」この表現はおかしい。「知っている」という言葉が意味をなすのは、知らない可能性があるときに限られる。「私は私の歯が痛いことを知らない」ということは意味がない。知らないということは歯が痛くないことと等しい。歯が悪くなっているのに痛くないことはある。痛かったが、別のことに気を取られて、その瞬間だけは歯痛を忘れることもある。だが、それは歯が痛いことを知らないことを意味しない。その状態の時には歯は痛くない。

 私自身の痛みは私にとって絶対的に確実だと考えたくなる。フッサールは、純粋意識にあらゆることを還元(現象学的還元)することにより厳密な知を構築することを試みた。フッサールはデカルトの「我思うゆえに我あり」を承認したが、我の存在の確実性から、他の様々な知をいかにして導くかという点で不十分だと考えた。事実、我の存在を確証してからのデカルトの論理展開は厳密なものとは言い難い。だから、フッサールが現象学的還元により絶対的な知の構築を目指すのは当然だと言える。フッサールは痛みの問題を考えた訳ではない。だが、私の痛みが否定することのできない事実(あるいは否定することが無意味な事実)であることはフッサールの思想に影響を与えた可能性がある。歯痛の確実性は、純粋意識における様々な事象の確実性を示唆し、そこから厳密な知が導かれることを期待することができるからだ。

 だが、本当に「私は歯が痛い」は疑うことが不可能な確実な事実なのだろうか。「歯」や「痛み」、「歯が痛い」という言葉を知らない者には、「歯が痛い」と言うことはできない。ただ、言葉を知っている者ならば「歯が痛い」と言うであろう何らかの状態にあるということは言える。しかし、それを「私は歯が痛い」と言うことと同一視できるかは疑問が残る。歯が痛いとき、人は自分の心の中を覗いて確認したりはしない。その意味では、痛みは直接的だと言える。だが、痛みや歯という言葉を知っているか、過去に痛みの体験をしたことがあるかどうかなどは、痛みの状態に影響を与えることがある。過去に歯の痛みと、それが自然に治った経験がある者は、痛みは直に収まると考えて痛みに耐えることができる。そのとき、その感覚は、はじめて歯の痛みに襲われたときとは違うと考えられる。

 「私は私の歯が痛いことを知っている。」という表現が不自然であることは否定できない。その意味で、歯が痛いという事実そのものは直接的だと言える。だが、それを厳密な知の構築の基礎となるべき絶対確実な事実だということはできない。私自身の歯痛は、それ自身では知ではない。痛みを分析するときに初めて、それが知の出発点となる。つまり、過去の経験と比べて痛みが強いかどうかを考える、痛み止めを飲んで痛みが和らぐかどうかを試す、歯を触ると痛いかどうか調べる、こうした痛みの対象化により初めてそれは知の構成要素となる。だが、それは、すでにこの例で示したとおり、様々な知や過去の体験などを前提としている。それゆえ、絶対確実と言える訳ではなく、そこから厳密な知を導くことは期待できない。


(2022/8/26記)

[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.