☆ 言語ゲームへの参加 ☆

井出 薫

 ウィトゲンシュタインは、言葉の意味を知るためには、それがどのように使用されているかを調べる必要があると指摘する。言葉が意味するところは多様で、しばしば変化する。言葉には共通の本質、あるいは普遍的な意味などはなく、言葉が表現するものにあるのは家族的類似性つまりどこか似たところがあるということだけだとウィトゲンシュタインは考える。

 このような言語の在りようをウィトゲンシュタインは言語ゲームと表現する。実際、私たちの言葉の理解はまさにゲームに参加するための技術を習得することであり、古の哲学者が追い求めたような言葉の本質を知ることではない。

 だが、私たちは、どのようにして言語ゲームを理解し、それに参加することができるようになるのだろうか。英語を習うことは、英語の言語ゲームを習得しそれを使うことができるようになることを意味する。そのためには何が必要だろう。まず英和・和英辞典が必要となる。それにより英語を日本語に訳し、日本語を英語に訳し、会話と共同作業に参加する。だが、辞書がなく、また通訳者もいない時はどうすればよいのか。そのときは身振り手振りで相手に意思を伝え、質問し、言葉を理解し、また使うべき言葉を探っていく。たいていの社会では、人は名前を持っているから、まず名前を伝え、聞くことから始めることが多いだろう。いずれにしろ、身振り手振りで試行錯誤し、外国語を習得していくことになる。

 ここで欠かせないことは、人々が私に協力してくれることだ。相手が全く非協力的であれば、辞書や教科書がない限り、外国語を習得することは難しい。つまり、言語ゲームを遂行している共同体の人々が、私が言語ゲームに参加できるように協力してくれることで初めて、参加が可能となる。

 ウィトゲンシュタインは、言語ゲームという思想を縦横無尽に展開し、言葉の意味、規則、私的言語などを議論した。だが、彼の関心の対象はあくまでも哲学的な課題であり、現実社会において人々がいかにして言語ゲームに参加することが可能となるかについてはほとんど議論をしていない。しかし、現実において一番重要なことは、如何にして言語ゲームに参加することができるようになるかということだ。

 言語ゲームへの参加は、共同体の人々の寛容と他者理解が欠かせない。また、逆に、言語ゲームへの多様な人々の参加が、寛容と他者理解を促す。この連関を考察することは、現代のおいて極めて意義深い。この観点はあらゆる社会科学と社会的実践で応用が可能となるだろう。ウィトゲンシュタインの思想から直接的に現代社会の課題を解決する道を発見することはできないが、そこに示されているアイデアから、多くのヒントを得ることができる。


(2022/8/5記)


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