井出 薫
デジタルは離散数学の世界に属する。一方、アナログは連続の数学の世界に属する。 離散数学の点と点の間隔をいくら縮めても連続にはならない。自然数のような離散数学の対象は、実数や複素数のような連続の数学の対象とは本質的に性格が異なる。ところが実数や複素数を扱う解析学でも、その数学的な体系自身は離散的なものとなる。そして、このことは、AIの原理的なモデルであるチューリングマシンであらゆる数学的な問題を表現して解決することができることを示唆する。これは、アナログとデジタルがその本質において同じ存在であることを意味しているのだろうか。 認識論的に言えば、そうなる。連続の数学でも、有限個の数学的記号(数、式、関数記号、微分・積分などの特殊記号、論理記号など)と、記号の合成・分離・変形の(有限個の)規則からなる論理的な体系により記述される。そして、この論理的な体系は離散的であり、デジタル的な存在に他ならない。しかし、それは数学に限った話であり、芸術はそれを超えると考える者もいるかもしれない。だが、文学は有限の種類の記号(文字)の集合体だから、デジタルを超えることはない。音楽も有限の記号からなる楽譜で表現される。他の芸術も同じで、芸術がデジタルを超えることはない。数学も科学も芸術も、あらゆる我々の認識は常に有限の種類の記号とその操作の体系として表される。それゆえ、認識論的には世界はデジタルであり、デジタル的な知を使ってアナログが認識される。デジタルとアナログは本質的に等しい。 この議論は、認識論的には世界はデジタルをあることを意味している。しかし、世界とは本質的にはアナログであり、それをAIで情報処理するうえで不可欠なのでデジタル化している。こう考えることはできないだろうか。音楽は確かに楽譜で表現されるが、個々の演奏は一つとして同じものはなく、また聞く者の感情もそれぞれ異なる。その在り様はアナログでありデジタルではない。つまり、存在論的には世界はアナログであり、その世界の中で、人間の認識という領域においてのみ、世界がデジタル化されている。こう考える方が自然ではないだろうか。 現代において、人々は認識論的にだけではなく存在論的にも世界をデジタルとして捉え、数理学的に把握し操作できるものと暗黙の裡に解釈している。このような考え方は情報社会に生きる者にはしっくりくる。しかし、それが正しいという根拠は特にない。自然という書物は数学という言葉で書かれているとガリレオは論じた。だが、ガリレオの書物は自然の一部のモデルに過ぎず自然と等しいものではない。自然そのものを数学つまりデジタルで認識し尽くすことはおそらくできない。世界はデジタルでは描くことができない領域を含むアナログな存在であると筆者は考える。但し、それを証明することはできない。なぜなら証明とは数学=デジタルだからだ。ウィトゲンシュタイン流に言えば「アナログは語りえない」。 了
|