井出 薫
「「世界」とは何か」。それは「世界」という言葉がどのように使われるかによる。国際政治では、世界とは諸国家と国家を持たない諸民族や難民の集合体を意味する。経済学などもおおよそ同じ意味で「世界」を用いる。物理学では、「世界」とは「宇宙」を意味する。たとえば、世界の始まりとは宇宙の始まりを意味する。生物学では、地球または宇宙の生命圏の全体を意味する。一方、哲学では、「世界」とは存在者の全体を意味することが多い。「世界」という言葉は多義的で、それぞれの領域で、「世界」という言葉を使う言語ゲームが存在すると言ってよい。 マルクス・ガブリエルは、主著『なぜ世界は存在しないのか』(2018年、講談社)で、「世界」と「宇宙」とは異なることを指摘し、科学的自然主義に反論する。宇宙とは物理学という学問分野で使用される概念でしかない。「世界」を構成する存在には、物理学者の「宇宙」だけではなく、上で述べたような多様な存在が含まれる。そして、人間は思考と行為により、新たな存在領域を切りひらく。それゆえ「世界」とは閉じた存在とはなりえず、常に開かれている。それは存在者が存在する場ではあるが、それ自身は存在するとか、しないとか述べることはできない。それゆえ、逆説的ではあるが、「世界は存在しない」と言える。 しかし、教条的な科学的自然主義者ならば、次のように反論する。人間は宇宙の一部であり、物理法則に厳格に従う。それゆえ、哲学的なそれも含めて様々な「世界」は「宇宙」の一部であり、それを超えるものではない。私たちは有限でありすべてを知ることができないから、人間精神に創造性を付与し、世界創造の機能を有しているかのように語るが、それは物理法則の必然的な現れに過ぎない。それゆえ、「世界」とは究極的には「宇宙」であり、それを超えるものではない。事実、私たちは決して物理法則に反する行動をすることはできない。私たちは無知であり、原因が分からないから、そこに自由や創造性を見出すだけで、本当はすべてが決まっている。 科学的自然主義は現代においては、意識するとしないとに関わりなく、人々の心を支配している。だからこそ、マルクス・ガブリエルはこれに挑戦したし、多くの読者がそれに共感した。もし科学的自然主義が正しいのであれば、私たちの思考や行為の意義は便宜的なものでしかなくなる。正義も不正義も相対的なものとなる。そして、私がここで原稿を書いていることは宇宙誕生の時にすでに決まっていたことであり、何の創造性もない。そして、世界の未来もすべて決まっており、そこには何ら新しい者は存在しない。ただ、無知な者だけが驚き、そこに天啓をみる。このような考えに私たちは納得するだろうか。 「世界」と「宇宙」は違うのか、それとも同じなのか。私たちの知識は有限であるから、この問いに最終的な答えを与えることはできない。私たちは自らの信念に基づき選択しなくてはならない。私は、人間精神には創造性があり、それゆえ「世界」は「宇宙」を超え、常に新しくあると考える。「世界」は「宇宙」のように物理法則ですべて決まっている存在ではなく、多様な創造的な性格を有する。そう考える方がより実りある「世界」概念を構成することができる。人間の知識はすべてモデル・道具であり、「宇宙」とは物理学者の物理学的なモデル・道具に過ぎず様々なモデル・道具の一つでしかない。そのことは、「世界」と「宇宙」は異なることを示唆する。 了
|