井出 薫
量子論ではシュレディンガー方程式を解き、解となる波動関数を使って様々な物理量を計算する。しかし、波動関数そのものを直接観測することはできない。しかも、それは技術的に不可能なのではなく、原理的に不可能なのだ。 ここで哲学的な議論の対象となるのが、波動関数は実在するのか、それとも計算のための道具に過ぎないのかという問題だ。厳密に言うと、シュレディンガー方程式を解くという方法をとるのは非相対論的領域で、相対論的な領域では別の解法が必要となる。それでも、解として与えられる量子状態が実在するのか、計算の道具かという問題は依然として残る。 波動関数など量子状態を実在すると考えると、波束の収縮(注)を納得のいく形で説明することができない。アインシュタインは終生、量子論を不完全な理論だと考えていた。だが、それはアインシュタインが物理的実在論者であり、波動関数を実在者と考えていたからだと言える。 (注)波動関数で表現される物理状態の観測を行うと、その瞬間に物理状態は別の状態に変化する。しかも、どの状態に変化するかは決まっておらず、確率的にしか予測できない。これを、波束の収縮と呼ぶ。アインシュタインは、これに対して「神様はサイコロを振ったりしない」と批判した。さらに、アインシュタインは、量子論が正しいとすると、宇宙の遥か彼方で行われる観測が、瞬時で、こちら側の観測結果に影響することになり、情報は真空中の光速よりも早く伝わることはできないという特殊相対論の帰結と矛盾すると主張した。だが、いずれの主張も、波動関数を実在者と考えるところから生まれるものであり、計算の道具に過ぎないとすれば、そこに矛盾はない。実際、宇宙の遥か彼方で行われる観測が、こちらの観測に瞬時に影響することは実験的に証明されている。ただし、それでも、情報は真空中の光速よりも早く伝わることはない。なぜなら、「観測を行い、〇〇という結果を得た」という情報を真空中の光速を超える速度で伝達する方法はないからだ。その情報を得ない限りは、こちら側では相手側で観測が行われたという事実を知る術はない。それゆえ、量子論は特殊相対論と矛盾しない。 筆者は、人間の認識はモデル・道具であり、認識の対象そのものとは消去できない差異があるという立場を取る。それゆえ、量子状態もモデル・道具であり、実在者そのものではない。そう考えれば、波束の収縮には何も不可解なところはない。 だが、量子コンピュータでは、量子状態そのものを操作している。そうなると、量子状態はやはり実在者ではないかという考えが浮かび上がってくる。それでも、それをモデル・道具で実在者ではないと解釈することはできる。しかし、それが操作可能であることから、量子状態は純粋な理論的存在ではなく、電子と同じタイプのモデル・道具であると考える方が自然に思える。そして、電子は基本的に太陽や月と同じような実在者だと考えられている(このような考えを科学的実在論と呼ぶ)。しかし、こう考えていくと、量子状態は月と同じタイプの実在者ということになる。しかし、月は観測できるが量子状態は原理的に観測できない。それゆえ、やはり量子状態は単なる計算の道具だと言いたくなるが、量子状態の操作可能性を考慮すると、ここで論じたとおり量子状態を単なる計算の道具と捉えることには疑問が生じる。これらのことをどう考えればよいのだろうか。 存在者(実在者を含む)には様々なタイプがある。それゆえモデル・道具にも多様性があると言えば、とりあえず答えにはなる。だが、具体的に存在の分類ができないと真の答えにはなっていない。いずれにしろ、量子状態の実在性の問題は難しい。どこに解決の糸口があるのかすら今のところ分からない。ここでは量子論と実在の問題にはこのような難問があるという事実を記すに留める。 了 (補足) 量子コンピュータが操作しているのは、波動関数など量子状態ではなく、量子ビットを構成する電子、光子、原子などであり、そのことを考えれば量子状態とはモデル・道具そのものであり、量子コンピュータはむしろモデル・道具論の妥当性を証すると言えるかもしれない。だが、それほど問題は簡単ではないと思われる。電子や光子、原子は量子状態により観測を通じてその存在が確定する。つまり量子状態と電子や光子等は不可分の関係にある。それゆえ、量子状態はモデル・道具そのものであるとすると、電子や光子も月や太陽と異なり、実在者というよりも計算の道具であるという見解に繋がる。これは科学的実在論を否定する。また、こう考えると、やはり操作しているのは電子や光子ではなく、量子状態であるという見方もできる。これらのことを考えると、やはり、量子論と実在の問題は未解決であると言わなくてはならない。なお、量子状態はそのモデル・道具的性格から、その本質において量子情報という性格を持つ。それゆえ、物理学と情報理論には本質的な連関があると思われる。 |