☆ ウィトゲンシュタインと知的アナーキズム ☆

井出 薫

 後期ウィトゲンシュタインの思想は言語ゲームに代表される。言語ゲームは言葉には普遍的な意味や本質はないという思想を表す。

 化学の実験中に、教師から「水をください」と指示された生徒が「ビールがあります」と答えたら怒られる。しかし、夏の夕方、家族がびっしょりと汗をかいて帰宅したとき、このように答えることはありえる。あとの例では、水は渇きを癒すものを意味しており、H2Oを意味していない。

 このように、同じ言葉でも多様な言語ゲームが存在しており、その意味は、それがどのように使用されているかを調べないと確定しない。そして、使用方法は無数にあるし、言語ゲームを続ける中で、新しい使用方法が見いだされることもある。こうして、言葉には普遍的な意味や本質など存在しないことが示される。

 しかし、知というものがすべて基本的に言葉で表現されることを考慮すると、言語ゲームの考察は、言葉の意味や本質に普遍性が無いだけではなく、あらゆる知に普遍性はなく相対的な者に過ぎないということを暗示する。「化学の世界に限定すれば、水は水素二原子と酸素一原子からなる分子だと確定する。そこには不確実性は少しもない。」こう反論したくなるかもしれないが、化学と言えど、共同体の活動の一部に過ぎず、閉じた世界を形成しているわけではない。私たちは、慣習から科学的な知識まで、あらゆる知において、それを理解するために日常言語を使用している。日常言語が言語ゲームならば、化学もそこから自由である訳にはいかない。化学を含む科学一般の知も決して絶対的なものではない。

 しかし、絶対的な存在として数学があると言われるかもしれない。数学は矛盾を含まず、数学的真理は絶対であり、そこには不確実性はないと(注)。しかし、ウィトゲンシュタインはチューリングとの論争で、「矛盾した数学を使うと橋が落ちてしまう」と主張するチューリングに対して、「矛盾を恐れる必要はない」と指摘している。矛盾を含む数学でも、上手く使えば、橋を適切に設計し建設することができる。もちろん、矛盾を含まない正統派の数学の方がずっと安心して使えるだろう。だが、それでも、矛盾を含む数学でも橋の建設という特定の目的には使うことができる。それゆえ、数学と言えど、私たちの共同体から自由ではない。チューリングが数学の無矛盾性の意義を、橋の建設という実社会の活動を引き合いに出して説明しなくてはならなかったところに、そのことが如実に現れている。
(注)ゲーデルの不完全性定理によると、数学体系の無矛盾性を、その体系の内部で証明することはできない。このことから、数学においてすら矛盾を含む可能性があると主張する者がいるが、正しくない。自然数論は、その形式化された体系において、その内的な論理で無矛盾性を証明することはできないが、ゲンツェンの証明論により無矛盾性が証明されている。

 後期ウィトゲンシュタインを、相対主義、非本質主義、非実在論などと評価する者がいる。だが、むしろ、その思想は、絶対主義/相対主義、本質主義/非本質主義、実在論/非実在論という二項図式を流動化するものだと言う方が相応しい。その意味で、後期のウィトゲンシュタインを(ファイヤアーベントのような)知的アナーキズムの思想家とみることができる。

 だが、その一方で、ウィトゲンシュタインは晩年、確実性の問題を論じ、「(自分の右手を聴衆の前に示し)これは私の右手である」という命題は確実であるとするムーアを基本的に擁護している。ただし、ムーアのように、それは絶対的な真理だという訳ではなく、疑うことが意味を失う命題だと言う。つまり、言語ゲームが成立しているとき、そこには暗黙裡に疑うことが無意味になるような命題が存在している。そして、それにより言語ゲームが成り立っている。「これは私の右手である」が疑わしいのであれば、あらゆることが疑わしくなり、コミュニケーションは不可能となる。ある意味、この当たり前の事実をウィトゲンシュタインは重視する。ただし、疑うことが意味を失うような命題は、予め確定しているわけではなく、その都度、言語ゲームの中で示される。それゆえ、ウィトゲンシュタインが晩年、絶対主義者、あるいは形而上学者(あらゆることにはその原因・根拠があるとする思想家)に変貌したわけではない。とは言え、ここには、知的アナーキズムに抗うウィトゲンシュタインの姿がある。

 ウィトゲンシュタインには、相反するように見える複数の顔がある。読者を寄せ付けない荘厳な言葉の集積体である初期の主著『論考』と、素人探偵が謎ときに挑んでいるような平易な文章の羅列である後期の主著『探求』、この二つはとても同一作者の手によるものとは思えない。後期に限っても、知的アナーキストとしての顔と、知の確実な土台の存在を支持する常識人の顔がある。そこが魅力であり、また難しさでもある。だが、おそらく、それは、妥協することなく、とことん哲学することを選ぶ者の宿命なのだろう。だからこそ、ウィトゲンシュタインは第一級の哲学者なのだ。


(2022/4/29記)


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