☆ 心と物理学 ☆

井出 薫

 「人間の身体は原子分子の集まりでできている。それがなぜ痛みを感じるのか。」こういう問いがある。原子や分子には痛みの感覚はない。ところが、人は痛みを感じる。なぜなのか。

 これに対して、意識も一つの物理的な過程なのだという意見がある。哲学者のサールなどがこの立場に近い。また、原子分子の集合体が脳のような複雑なシステムへと統合されると、そこに表象なる現象が生じ、それが認知されるようになるという意見もある。これらはいずれも唯物論的な立場、つまり実在するのは物理法則に従う身体だけとみなし、そこに感覚や感情、知性などを組み込もうとする試みだと言ってよい。確かに、受精から発生、成長の過程で意識現象が生じる。それゆえ、物理的な因果連鎖の中に意識の発生もあるはずだという意見には一理ある。だが、意識現象を物理的な因果連鎖に取り込むことが可能だとは思えない。なぜなら、既存の物理学の理論のどれ一つとして、意識現象と接続する接点を見出せるようなものはないからだ。量子論の基礎に関する難問である観測問題(注1)の解決策として意識を持ち出す立場がある。しかし、多くの難点があり支持する者はほとんどいない。
(注1)量子状態は観測をしなければ決定論的な方程式により時間変化するが、観測すると瞬時に非決定論的に別の状態に変化する。この現象をどう解釈するかについて、量子論誕生以来議論が続いているが、解決されていない。意識が非決定論的な変化をもたらすという見解があるのだが、意識は通常量子状態については何も知らないのだから、このような見解に根拠はない。また、意識を持つ実在者がいない世界(たとえば生命体の存在しない惑星)でも量子論の法則は同じであるという物理学の前提にも反する。

 では、どのように考えればよいのか。人間は原子分子の集合体であるという見解はおそらく正しい。また、ミクロの世界では、原子分子は量子論など物理法則に従うことも間違いない。だが、間違いのもとは、ここで「だから、人間の意識は物理法則と整合的な理論で説明される必要がある」と考えるところにある。この発想は一見自明に思えるかもしれないが、必ずしも正しいとは言えない。確かに、物理学は全宇宙からミクロの世界まで、多くの自然現象に適用される。そして多くの実用的な成果をもたらしている。物理学なくして現代社会はないと言っても過言ではない。だが、そのことは、世界とは物理的な世界に等しいということを意味しない。

 「原子分子の集合体がなぜ痛みを感じるのか」という問い自体に果たして意味があるのだろうか。確かに、無機的な世界における原子分子の振る舞いは物理学により解明される。だが、そのことは、意識現象もまた物理学により解明されなければならないということを意味しない。「意識現象はそれ独自の観点から解明されるべきものであり、物理学で解明されるものではない。」と考えても何の矛盾もない。物理学は確かに強力だが、それで世界のすべてが説明できると考える根拠があるわけではない。

 私たちの認識はすべて対象とは解消できない差異を持つモデル・道具であり、物理学の認識とその理論も、変わることはない。世界には物理学のモデル・道具で解明できる領域がある。そして、それは非常に広い範囲をカバーする。そこでは、物理学というモデル・道具、測定装置や観測装置、解析装置、数学などにより、対象が認識され、そこで得られたモデル・道具で世界に介入することができる。だが、それが世界のすべてではない。ガリレオは自然という書物は数学で書かれていると述べた。しかし、全てが数学で書かれているという証拠はどこにもない。

 このように考えれば、原子分子の集合体が痛みを感じるのは何故かという問いは、そもそも意味のない問い、疑似問題にすぎないと考えることが可能となる。つまり、痛みなど意識現象は、物理学のモデル・道具やそこで駆使される数学などとは異なるモデル・道具で認識されるべきものなのだ。現代人は、物理学と数学のモデル・道具の威力に幻惑され、すべてはそこに還元されると安易に思い込む。だが、物理学は世界そのものではなく、その一部の領域を認識するためのモデル・道具の一つに過ぎない。人間はなぜ痛みを感じるのかという問いは、人間が原子分子の集合体であることとは無関係に解明されるべき問題と言える。(注2)
(注2)この結論に同意できない者がいるだろう。「人間は原子分子の集合体なのだから、原子分子の振る舞いを決める物理理論により、人間のあらゆる振る舞いは演繹されるべき」だという考えは根強い。だが、このような考えは、物理理論を、世界に内在する唯一無二の設計図で、全てはその設計図通りに動くということを暗黙の前提とする。だが、この前提は現代人のドグマに過ぎず根拠はない。


(2022/4/15記)


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