☆ 哲学することの意義 ☆

井出 薫

 哲学することの意義は何だろう。「ない」という答えもあるが、「いまの時代こそ、新しい哲学が必要だ」などと言われることは少なくないし、哲学に興味を持つ者も多い。科学と技術がいくら進歩しても、分からないこと、できないことは分かること、できることより遥かに多い。どんなに医学が進歩しても人は永遠には生きられない。だから、誰もがときには生きることに疑問を感じる。現代において、哲学することには、(社会科学や人文科学も含めた)科学や技術を学ぶような実用的な価値はない。だが、それでも哲学することには大きな意義がある。では、どんな意義があるのか。それは思考を拡大することにある。

 アリストテレスやハイデガーは哲学の第一問題は「存在とは何か」という問いだという。これは単純な問いに思えるかもしれないが、実は多様な顔を持っている。

 まず、「存在」という言葉そのものを問うことができる。「存在」あるいは「ある」という言葉がどのように使用されているか、言語体系の中でどのような意義を持つかを検討することができる。さらに、「存在とは何か」という文を考察の対象とすることができる。たとえば論理実証主義者の一部は「存在」を論理記号∃として分析する。論理実証主義の流れをくむ分析哲学なども、「存在」、「存在とは何か」を言語表現として分析することが多い。こういった言語分析は一見したところ空疎なものに思えるかもしれないが、そうではない。「クジラ」は存在する、「ゴジラ」も存在する。だが、クジラは現実世界に実在するが、ゴジラは実在せず映画や脚本など架空の世界にのみ存在する。このように、同じ「存在」という言葉が使用されていても、その意味には多様性がある。それゆえ言語分析的な手法で「存在」を問うことは十分に意義がある。

 同じように「存在」を言葉として問うが、言葉の分析としてではなく、現象学という観点から問うこともできる。そこでは、「存在」は単なる言葉や文ではなく、言葉を超えた何かを暗黙裡に表現すると考える。実際、多くの者は、「存在」は単なる言葉ではないと直観する。それを考察する方法として現象学がある。私たちは存在を理解しようとするときに何をしているか、存在あるいは存在する何かを認識しようとする意識は何をしているか、こういうことを現象学は考察する。現象学の始祖と言われるフッサールはもちろん、ハイデガーも現象学的な方法論を採用する。そして、それは「存在」の言語分析とは異なる思考へと導く。そして、それは世界、生、認識などについて、新たな視界を開く。

 次に、「存在とは何か」を、「存在者は何か」、「存在者の本質は何か」という問いに移し替えることができる。ハイデガーは古代ギリシャ以来の西洋形而上学は「「存在とは何か」の「存在」を無意識のうちに「存在者」に置き換えて議論してきた」と批判する。「存在」と「存在者」との間には存在論的な差異があり、それを看過することは間違いだとハイデガーは指摘する。だが、「存在者」を問うことなしに「存在」を問うことはできない。それゆえ、「存在者とは何か」、「存在者の本質は何か」という問いは、決して二次的なものではない。「世界は物質か、精神(あるいは観念、意識)か」という問いは存在者の本質を問う。また、「世界はどのような法則に従うのか、あるいはそもそも法則があるのか」という問いも同じように、存在者の本質的な在りようを問う。さらに、唯物論者を支持して、「世界は物質だ」とすると、そこから様々な問いが派生してくる。「時間と空間は何か、それは物質の一つなのか、それとは別の存在なのか」、「物理法則は普遍的なものだとされるが本当にそうなのか、またその根拠は何か」など様々な問いが導き出される。これらの考察は物理学など学問体系の基礎への省察になる。

 「存在とは何か」という問いを、なぜ、人はそのような問いを問うのか、という人間学的な観点から考察することも出来る。たとえば、ニーチェはこのような類の問いをしばしば提示する。そして、この問いの背景には現実をありのままに受け入れることができない弱者のルサンチマン(復讐心、妬みの感情)が潜んでいると指摘する。ニーチェの診断が正しいかどうかは甚だ疑問だが、このような観点で考察を進めることは、人間の本性を探るうえで価値がある。たとえば、フロイトやマックス・ウェーバーはニーチェに大きな影響を受けている。

 このように、「存在とは何か」という問い一つから、実に多様な思考の世界を展開することができる。哲学することの意義は、このようにさまざまな方向に私たちの思考を拡大することにある。ただし、このように思考を多角的に展開するためには、ある程度は哲学的素養が必要となる。哲学を学ぶことの意義がここにある。科学的な観点からすれば、古代ギリシャ以来の哲学者の言っていることの多くは現代においては不適切なものとなっている。だが、それでも、哲学を知り、哲学することを通じて、思考力を鍛えることができる。そして、それは全ての思考と実践に役立つ。


(2022/4/1記)


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