☆ 芸術と理解 ☆

井出 薫

 理解という概念は簡単なようで難しい。芸術作品を理解すると言うとき、それは日常の会話を理解することとは意味合いが異なる。映画を観終わったとき、「この作品のどこが良いのか理解できない。」と誰かが言う。この「理解」は「ロシア語は習ったことがないので、ロシア語の文章は理解できない。」と言うのとは意味が違う。ロシア語ならばロシア語を勉強すれば理解できるようになるし、通訳すればおおよその意味は伝えることができる。しかし映画の良さを伝えることは難しい。良いと思う者は、その良さをあの手この手で伝えようとするだろう。だが、理解できないという者を納得させることができるかどうかは分からない。何を以て理解させたと言えるかを明確に定義することもできない。分かったと言っても、社交辞令で分かったと言っているに過ぎないこともある。

 世界映画史にその名を留める小津安二郎監督の傑作『東京物語』を初めて観たとき、その良さが理解できなかった。テンポが遅く感じられ退屈しただけだった。当時は左翼運動が盛んだったこともあり、「社会の矛盾を正面から描かないプチブル的な作品だ。」などという一端の左翼気取りで批評したことを覚えている。しかし、今では、その良さが分かる。映画史に残る傑作という評価も妥当だと支持する。だが、いったい、私の何が変わったのだろうか。映像作品そのものは変わっていない。では、社会全体の評価が変わることが影響しているのだろうか。初めて観たとき、先に述べたとおり左翼思想が強かったこともあり、公開当初は傑作とは言われたものの『東京物語』の評価は今ほど高くはなかった。当時のキネマ旬報でも年間一位にはなっていない。それが、その後、黒沢明の『七人の侍』と並び日本映画史上のランキングトップに立つようになった。そのことが、私の評価に影響を与えている可能性はある。だが、それだけではない。妻に先立たれた老人の孤独を象徴する場面などは何度観ても胸が熱くなる。それは初めて観た時には感じなかったものだ。社会的評価は確かに個々人の評価に影響する。傑作と評価された作品は何でも傑作だというお調子者もいる。だが、社会的評価が下がっても自分の中での評価が上がることもあるし、逆のこともある。それゆえ社会的評価だけでは、芸術の理解は説明できない。

 それでは、私の何が変わったのだろうか。ロシア語を学び理解できるようになったのとは違うし、物理学を勉強して熱力学の第二法則が理解できるようになったのとも違う。外国語や物理学の理解は、コンピュータのアルゴリズムに近い。しかし、芸術の理解はアルゴリズムで表現することは困難だと思われる。まず、芸術の理解は個人差が大きく、主観的な性格が強い。『東京物語』が日本映画史の最高傑作の一つと評価されるようになってからも、良さが分からないという者もいるし、良いとは思うがそれほどの傑作ではないと評する者もいる。私は若い頃には良さが理解できなかったが、今の若者で初めて観た時から感動し最高傑作だという者もいる。映画の専門家には、小津独特の映像技法を高く評価する者が多いが、私にはそこまでは分からない。指摘されるとなるほどと思うが、小津独特の映像技法が私の感動の理由になっているとは言えない。

 私は旧ソ連の世界的に著名な映画監督タルコフスキーのファンなのだが、その前衛的な作品は一般視聴者にはあまり理解されない。ファンだというと、「どこが良いのかわからない。お前、本当に分かっているのか。」と言われることが多い。こちらも好きな理由を説明することができない。自分で考えてみても不思議に思うこともある。タルコフスキーの『鏡』や『ソラリス』などの良さは最初から分かったのに、『東京物語』の良さはなぜ分からなったのかと。

 芸術の理解とは、主観的なものであり、情感に関わるものだと考えられている。作品と共鳴することができるかどうかで、評価が決まる。それはアルゴリズムで一般論として説明できるものではない。外国語や物理学のように理解の基準を定めることもできない。多くの者が良いと感じる作品を網羅して、そこから共通的なパターンを抽出することは不可能ではないかもしれない。だが、例外が多く、また、研究者によって結論が異なることになるだろう。実際、美しいと思う顔はどのような顔かという研究は多くなされているが、統一した見解はない。また、パターンが見つかったとしても、それがなぜ良いと感じるのかは分からない。このように考えていくと、良いと思えるならば、それは理解したことであり、そうでなければ、理解していないことになる。それがすべてということもできる。

 理解という概念は多義的であり、芸術を主題に、その本質を論じるときには、日常言語の理解を中心に論じる分析哲学的な認識論や存在論は通用しない。だが、この事実にこそ、芸術とその理解について探求する糸口が見つかるように思える。

(補足)
 ウィトゲンシュタインは、理解したと思うことと、理解とは違うと指摘する。方程式の解き方を理解したと主張する者が間違った解法で間違った答えを出したとき、私たちは、その者が理解したとは認めない。日常会話や科学の問題では理解は公共的なものだといえる。しかし、芸術の理解は公共的な側面はあるものの、本質的に主観的なものだと思われる。また、それゆえ、芸術と向き合うときにこそ、普遍的な人類には還元できない個々の人間(実存)の本質が現れると言ってもよい。


(2022/3/18記)


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