井出 薫
理由と原因は同じような意味で使われることもあるが、基本的には違うと考えられている。だが、どう違うかというと、なかなか説明が難しい。 父親が洋菓子店でケーキを買っている。なぜケーキを買うのかと聞くと、子どもの誕生日だからと答える。子どもの誕生日は理由であり原因ではない。しかし、こういう場合はどうだろう。父親が歩いているとき、ふと洋菓子店の看板が目に入り、今日は子供の誕生日であることを思い出す。そして、店に入りケーキを買う。この例では、子どもの誕生日を思い出したことが、ケーキを買うという行為の原因と考えることができる。誕生日はケーキを買う理由だが、誕生日を思い出すことはケーキを買う原因だということになる。つまり一つの行為に理由と原因が共存している。 日が暮れ部屋が暗くなったので、照明に灯を入れたとする。照明の点灯という行為にとって、日が暮れ暗くなったことは理由だろうか、原因だろうか。先の例に合わせると、暗くなったことは理由であり、暗くなったことを認識したことが原因だということになる。この場合も、理由と原因が共存している。 理由は通常、対象を含む志向性を表現する。つまり、「誕生日」、「暗い」などの(「誕生日」、「暗い」などの志向される対象を含む)志向性がそこに表現されていると考える。一方、原因は、一連の事象の因果連鎖の一部をなす。人間の行為には一般的に、志向性と因果性の両面が存在する。 ここで述べている「原因」は、自然科学的な因果連鎖との間に共通性がある。しかし、自然界の中でも、無生物には原因という概念を適用することはできるが、理由という概念は適用できない。木が倒れた原因を調べることは意味があるが、原因が自然的なものであるときには(原因とは異なる)理由を尋ねることは意味がない(注)。 (注)ただし、近代以前、たとえば古代ギリシャでは、無生物に対しても理由を問うことが意味を持つとされていた。物体が落下するのは、地球の中心が物体の本来あるべき場所であり、そこに戻ろうとするからだとされた。近代においては、少なくとも無生物については、運動をこのような目的論的に説明すること(=理由を語ること)は意味がないとされている。 原因を問うことは意味があっても、理由を問うことが意味を失う存在領域を「自然」と呼び、理由と原因が共存している存在領域を「人間とその社会」と呼ぶ。こういう主張は正当だろうか。これが正しければ、自然と、人間と社会とを明確に区別することができるようになる。自然界に存在するのが人間を除くと無生物だけならば、この主張は一定の正当性を持つ。しかし、自然界には生物が存在する。生物を理解するには理由を問う必要がある。ライオンはなぜ鹿を追うのか。答えは餌を得るためだが、これは原因ではなく理由と捉える必要がある。近代科学は目的論を極力排してきたが、生物を記述するときに、目的論的な視点を無視することはできない。目的論的な記述を回避するために、もっぱら環境の認知とそれに続く身体の働きだけで、生物の活動を記述することができないわけではない。しかし、それでは生物の特徴を理解することができないし、研究が著しく難しくなる。さらに、それを言えば、人間もほかの生物と同じで、その気になれば、原因だけを問い、理由を排除することができることになる。だが、人々は他人を評価するときに行為の原因ではなく理由を問題としている。それゆえ、理由を排除することに正当性はない。 それゆえ、理由と原因という観点から、自然と、人間とその社会を区別することはできない。むしろ、自然と、人間とその社会は本来一つの存在者と考えるべきで、理由と原因という概念をどのように適用するかは便宜的な問題に過ぎない。そう考えると、そもそも理由と原因の区別そのものが便宜的なものに過ぎないと考えることもできる。そして、そこに、人間と自然を独立した存在とする二元論を超えた視界が開けてくるのではないだろうか。自然と、人間とその社会は存在論的には同一のカテゴリーに属し、認識論的に両者が区別して論じられる。そして、理由と原因という概念はまさしく後者に属している。 (補足) 「誕生日」、「暗い」と「誕生日を思い出すこと」、「暗いことに気が付く」の間には分かちがたい関連がある。「誕生日」、「暗い」を認識することなしには、「誕生日を思い出す」、「暗いことに気が付く」ことはない。逆に、「誕生日を思い出す」、「暗くなったことに気が付く」ことがない者は、「誕生日」、「暗くなったこと」を理解することはできない。それゆえ、理由と原因とは認識論的な次元に属するものであり、存在論的な次元にはない。両者とも、人間が人間社会あるいは自然を論じるときに使用する言葉という以上の意味はない。 了
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