井出 薫
意味と理解は密接に関連している。人は、言葉の物理的な実体である空気振動や画像、動画を理解しているのではなく、感覚で捉えられる物理的現象の中から意味を取り出し、それを理解し、必要な行動をとる。これらの一連の過程は脳の中で行われる。このような思想は、一見したところ、疑いようのない真実であるように思える。だが、脳の中で意味が理解されているというのは本当のことだろうか。 脳の特定部位に障害を負うと、言葉が理解できなくなったり、文法に適った言葉を発することができなくなったりする。このことから、脳の中で意味の理解、適切な意味を持つ言葉の生成が行われていると推論される。確かに、誰もが理解できるような言葉を発し、言葉を理解するための何らかのメカニズムが脳内にあることは間違いない。だが、問題は、「意味なるものを理解している」という主張にはいささか飛躍があるということだ。 AIによる自然言語処理はまだまだ初歩的な段階に留まっている。たとえば、優れた通訳者や翻訳者には到底及ばない。優れた小説やエッセイを書くこともできない。だが、AIでは人間のような自然言語処理はできないという証拠はなく、原理的な限界も発見されていない。AIが進歩すれば、芥川賞クラスの小説を書くことができるようになる可能性は十分にある。だが、それが実現できたとき、AIは意味を理解し、意味ある言葉を生成していると言えるだろうか。AIが現在のようにチューリングマシンに基礎をおく機械として存在する限りは、そこにあるのは計算だけであり、理解も意味もない。意味を理解しているように見えるに過ぎない。 一方、人間では意味の理解が決定的な役割をなす。言葉を理解するとき、人間は計算をしているのではなく意味を理解していると感じる。では、なぜそう感じるのか。それは意識に上るのが神経細胞間の信号伝達などの物理的・化学的な過程ではなく、言葉のやり取りという次元だからだ。AIと同様に、その基盤に計算または物理的なプロセスがあったとしても、それは直接意識には上がってこない。だから、私たちは、意味を理解していると考える。それを根拠に、人間知性とAIは等価だとする考えに批判的な哲学者は、チューリングマシンで人間の思考や行動を模倣することができるとしても、人間はチューリングマシンとは異質な存在だと反論する。筆者自身も実は、人間、いや人間だけではなく生物は、チューリングマシンとは等価ではないと考えている。ただ、それを厳密=数学的に証明することができない。なぜなら、数学的証明とはチューリングマシンで計算することに等しいからだ。それゆえ、人間がチューリングマシンであるかどうか、人間は(計算に還元されない)意味の理解を行っているという思想が正しいのかどうか、結論が出ない。この問題に決着をつけるには現代科学(数学を含む)を超える思考が必要となる。だが、少なくとも、今の時点ではそれは発見されていないし、そもそも発見できる可能性があるのかどうかも分からない。 人は言葉でコミュニケーションするとき、計算ではなく言葉の意味を理解していると信じている。計算が意味の理解の基盤ではなく、逆に、意味の理解を通じて計算を理解する。哲学は、この人々の信念を前提として考えることが必要だと思われる。つまり、この信念を詳細に記述することこそ、哲学の出発点となり、哲学の存在意義を生み出す。 了
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