☆ 情報、物、客観性 ☆

井出 薫

 月や太陽は人間の意思とは関係なく実在する。これらも社会的に構築されたものだと主張する相対主義者あるいは社会構築論者もいるが、概念とその対象は同一ではなく、月や太陽が実在していることは間違いない。人類が絶滅しても、月も太陽もその寿命を終えるまで存在し続ける。様々な生物種にも同じことが言える(注)。
(注)ただし、そのことをどう証明するかは、哲学の難問で、解決がついていない。

 だが、情報は人の存在と連関している。「私は、明日午後1時、東京駅に到着する。」というメッセージがあるとしよう。これだけでは、いつのことかは分からない。いつ発信したかが分からなければ、「明日」だけでは日にちは決まらないし、これだけでは「私」が誰かも分からない。新幹線で東京駅に来るのか、タクシーで東京駅まで来るのか、どのように来るのかも分からない。そして、これらの補足情報がないと上の情報は十全な情報とはならない。それゆえ、情報は実在するのではなく、人との連関において存在する。補足情報をすべて収集すれば、それは客観的な実在となるのではないかと考える者もいるかもしれない。だが、上のメッセージに関連する情報は無数にあり、閉じた情報全体というものを考えることはできない。コンピュータサイエンスの重要課題の一つ、フレーム問題はこのことと関連する。たとえば、「明日」とは、このメッセージを受け取った次の日のことだと分かったとしよう。だが、明日、自然災害や事故で新幹線が止まり、この人物が上京できないことがありえる。その場合にどうするかを決めておかないと情報全体としては完全ではない。だが、明日、どのような自然災害が起き、この人物が上京できるか否かを予測するには、自然法則や災害時のJRの対応など無数の情報を必要とする。だから、閉じた情報全体なるものを構成することはできない。また、情報は受け手が何らかの行動を取ることを期待しているが、受け手が何をするかは、その場の様々な状況により変化する。それゆえ受け手の行動まで考慮すると、情報が完全になることはない。つまり、情報は常に開かれており、閉じた全体を構成することはできない。

 ただし、そのことを以て、情報とは主観的な存在と考えるのは間違っている。コンピュータは与えられた情報に基づき、(計算不能な問題を除いて)一つあるいは定まった確率で複数の回答を出力する(ただし、回答までに膨大な時間が掛かることはある)。このような場合は、情報には客観性があると言ってよい。但し、このように明確な入出力が与えられる情報は情報と呼ばれるもののごく一部に過ぎない。それゆえ、一般的には情報は物理的な実在者と同じような客観性を有しない。しかし、純粋に主観的な存在でもない。また、社会的に構築された存在とも言えない。なぜなら、コンピュータの計算結果などは、社会的なコンセンサスで変更できるものではなく、客観的な実在に近い拘束力があるからだ。また、合意に依存しないことから、それを間主観的な存在と言うこともできない。

 自然法則はどうだろう。月や太陽のように物理的実在なのだろうか。それとも情報のようなものなのだろうか。また、月や太陽のように感覚で捉えられる存在ではなく、ヒッグス粒子のような決して直接的に感覚で捉えることが出来ない素粒子や重力波はどうだろうか。ここには様々な議論がある。科学的実在論は、ヒッグス粒子や重力波を客観的実在と考える。社会構築論的な立場だと、これらは理論的に構築されたものに過ぎないということになる。「ヒッグス粒子が発見された」、「重力波が発見された」は、科学的実在論では、月や太陽が発見されたのと同じで、客観的な実在者が発見されたことになる。いっぽう、社会構築主義の立場では、ヒッグス粒子や重力波の存在を想定する理論の妥当性が検証されただけということになる。

 おそらく、このような実在論と社会構築主義あるいは相対主義との論争は解決できない。自然法則は、自然現象を理解しそれを利用するためのモデル・道具であり、一種の情報と解釈することができる。それは客観的な実在ではないが、主観的な存在でもない。社会的に構築されたものだとも言えない。強いて言えば、情報論的な存在と言うべきだろう。統計力学や熱力学で使用される重要な物理量の一つであるエントロピーと、情報理論で使用されるエントロピーの関係は長らく不明だったが、前世紀後半に密接な関係にあることが証明されている。このことからも自然法則は情報と関連していることが示される。

 では、感覚で捉えることができない素粒子はどうだろう。筆者は素粒子については実在論者に従い、物理的な実在つまり客観的な存在だと解釈してよいと考える。自然法則の場合は、それを月や太陽のように概念と対象とに分けて考えることはできない。自然法則という概念の対象は自然法則そのものであり、概念と対象の区別ができないからだ。概念としての自然法則は、ただその認識と使用において、自然現象や自然の実在物を対象として生成されるモデル・道具であり、月や太陽とは全く異質な存在だと言わなくてはならない。それに対して、ヒッグス粒子は感覚でとらえることは出来ないが、ヒッグス粒子という概念と対象としてのヒッグス粒子とを区別して考えることができる。それゆえ、それは月や太陽と同じタイプのカテゴリーに属すると言ってよい。とは言え、感覚では決して捉えることができない素粒子などを月や太陽と同じと考えることには疑念が残る。そこで、素粒子や重力波のような存在を、コンピュータ処理される情報のように客観的という側面が強い情報として捉えることを提唱したい。そうなると自然法則もそれに近いことになる。ただし、そう考えると、自然法則と素粒子等の実在物との差異が曖昧になるという欠点がある。それゆえ、ここは更なる議論が必要となる。ただ、これだけは言える。存在の様態として、客観的な存在、主観的な存在、間主観的な存在、社会構築主義的な存在とは別に、情報論的な存在という様態が考えられるということだ。それにより、延々と続き解決の糸口すら掴めていないでいる実在論と反実在論の対立を解決する手掛かりが得られるように思われる。


(2022/1/21記)


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