井出 薫
異端の生物学者ユクスキュルは、生物はそれぞれ主体的な環境世界を有していると考え、機械論的な生物観を批判した。生物は外部からの入力に対して機械的に出力を出すだけの存在ではなく、外部からの知覚情報を処理する主体が存在し、それが生物の諸器官を動かしていると主張した。つまり外部からの情報を基に主体が環境世界を構築しその中で生物は生きているとユクスキュルは考える。ユクスキュルはマックス・シェーラーなど多くの哲学者に影響を与えた。ハイデガーの世界内存在という思想にもユクスキュルの環境世界が影響を与えているとする識者もいる。そして、現代においても哲学者、経済学者、人類学者などにユクスキュルに注目する者がいる。 ユクスキュルが生きた時代、19世紀後半から20世紀前半にはまだコンピュータが存在せず、機械の動作の大半は歯車のように入力から出力が自動的・機械的に決まるものだった。生物がそのような単純な存在ではないことは容易に理解される。蟻のような小さな生物でも、外部からの様々な刺激の中で自分にとって重要な情報を選び出し、それと過去の情報に基づき行動を選択する。つまり生物は入力・出力が単純に連結している機械ではなく、情報処理をして多様な環境の中で適切な行動を選択し生きている。そして、時には状況に応じて行動変容をする。見方を変えると、そのような存在を生物と呼んでいると言ってもよい。 一方で、現代の自然科学者や工学者は、ユクスキュルの主張には与しない。情報処理はユクスキュルが主張するような主体や環境世界を不可欠の存在とするわけではない。チューリングマシンは一つ一つのステップでは機械的な動作しかしない。しかし全体としては生物に特徴的な合目的的な動作を行う。抽象的なチューリングマシンの実用版と言えるコンピュータ制御の機械は、入力情報を内蔵されたアルゴリズムに従い処理し、外部に適切な出力をするとともに、内部の状態を更新する。それは、外部から見ると、自らの意思を持ち、自らの目的に相応しい行動をする存在であるかのように見える。チェス、囲碁、将棋をするコンピュータは単純に相手の指し手に対して決まりきった手をさすのではなく、過去の情報を参照してアルゴリズムに基づき手を探して指す。そして、その結果を学習して徐々に上達し、最初は負けた相手にもやがて勝つようになる。少し前は、棋士とコンピュータの対局がよく行われ、勝ったり負けたりしていたが、今では名人でもコンピュータには敵わない。尤も、現時点では、コンピュータが処理出来ることはかなり限定されており、将棋が強いだけ、ビックデータの処理が得意なだけなど、特定のタスクに特化した専用型が多い。だが、より汎用的に知的処理ができるコンピュータが登場しており、人間に近い存在になってきている。最近はコンピュータという呼び方よりも、AIという呼び方の方がよく使われるようになっているが、これがその理由の一つと言えよう(注)。 (注)現代のAIはコンピュータのアプリケーションの一つであり、チューリングマシンを理論的なベースとするコンピュータを超える存在ではない。人間の知性はすべてチューリングマシンでシミュレーションができるのか?チューリングマシンを超える知性は存在するのか?もし存在するのであればそれを機械で実現することは可能なのか?などという問題は未解決であり、哲学的な議論の対象になっている。 このように、生物の行動から、生物固有の主体や環境世界の存在を証明することはできない。AIなどの進歩で、生物にできることはすべて機械にできる、つまり生物は一種の機械であるとする思想が復活している。だが、外部から観察される生物の行動をすべて機械でシミュレーションできても、意識を機械でシミュレーションすることはできないと主張する者が少なくない。チャーマーズが提唱する哲学的ゾンビ(人間と完全に同じように振舞うが意識が欠けている存在)という概念がその代表格だと言えよう。筆者もどちらかと言うと、機械論的な思想に異議を唱える哲学者に賛同している。類似するところは多いが、生物の世界と機械の世界はやはりその根源において異なる。自然科学者や工学者の試みは、生物の行動の神経学的なメカニズムを解明し、目的とする機能を技術により実現することにある。確かに、技術的、産業応用的な観点からすると、それで十分であり、哲学的な考察に意義があるのか疑問に思えるかもしれない。だが、人間存在の意味を考えるとき、科学的、技術的な思想だけでは不十分と言わなくてはならない。私の悲しみ、喜びは紛れもなく実在する。山の頂から展望される景色は疑う余地なく実在する。それらは決して素粒子の集合体でも、物理学の究極理論の現れでもない。ユクスキュルに関心を持つ者は少数だが、その思想の重要性は失われていない。 了
|