井出 薫
蚊を叩く。命ある者を殺すのだから、心が痛んでも不思議はないのだが、余り痛まない。一方、犬を棒で叩く者を見たら不快に思う。多くの者が同じだろう。では、蚊と犬とどこが違うのか。私たちは蚊には意識がなく、死を恐れたり、痛みを感じたりすることはないと思っている。だから、蚊を叩いても余り痛みを感じない。 では、犬には意識があり、蚊には意識はないと考えることは正しいのだろうか。この問いに答えるには、意識とは何かを知る必要がある。人間の意識は、意識していることを意識しているという性質がある。これを自己意識と言う。また、意識は孤立した実体ではなく、常に「何かを意識している」という性質がある。これは意識には対象が含まれることを示しており、意識の志向性などと言われる。また、意識には感覚経験(クオリア)が含まれる。つまり、「赤い」、「暑い」などという感覚が常に私たちには付きまとっている。 このような意識はどこから生じるのか。脳に損傷を受けると意識を失うことから、脳と意識が密接な関係にあることは見当がつく。そこから意識とは脳の活動だという考えが生まれる。心脳同一説などという立場がそれに当たる。だが、脳は有機的な物質であり、そこには物理学的、化学的な反応はあるが、意識なるものを見出すことはできない。どのような実験をしても、分かるのは脳細胞の電気的、化学的な反応とそれがもたらす筋肉の動きだけで、意識なるものが発見されることはない。ただ、被験者の同意を得て、痛みを感じているときに、脳のどの部位にどのような反応があるかを知ることは出来る。作家が小説を書いているとき、脳がどのように動いているかを知ることも原理的にはできる。だが、そこになぜ意識が存在するのかを答えることは出来ない。脳のこれこれの反応がどうして、「痛み」という感覚、「痛くて仕事に集中できない」という意識と対応しているのか、どうやって、そういう感覚や意識を生み出すのか、説明することはできない。物理学や化学が説明できるのは、あくまでも物質の反応であり、意識はその範疇外にある。イオンが電荷を持つように、脳が意識を持つと考えることはできない。イオンには荷電粒子(電子や陽子)と荷電粒子が生み出す電磁場(光子)がある。しかし、それらはすべて物質的な存在であり、意識とは全く異なる。脳という物質に付随するのは、電荷や電磁場であり、物理学など自然科学で解明できる性質だけであり、意識はそこには存在しえない。実際、意識を物理的な世界と結びつけようとする試みが、言語行為論で有名なサールなど多くの哲学者や科学者により行われているが、成功していない。それは当然で、意識は物理現象と並行して起きる何かと考えることはできるが、物理現象そのものではない。物理現象に必然的に存在する保存則も因果性も意識には存在しない。逆に、自己意識、志向性、クオリアなどは物理現象には存在しない。意識は物理現象とは異質な存在と考えるしかない。 意識を科学的に解明しようとする試みはこれからも続くだろう。しかし、それはあくまで意識そのものを解明するのではなく、意識なる現象と並行している脳神経系の活動を調べることに留まる。もちろん、その並行関係が明らかになれば、得るところは極めて大きい。精神疾患の治療に多大な貢献をすることになるし、認知症の治療にも役立つだろう。心的ストレスを正確に計測し、ストレスと上手く付き合い心穏やかに過ごすことができるようになる。それは社会を安定させ、人類の理想、兵器のない平和な世界へと導くことも期待できる。ただ、それだけでは、意識の謎は解消されない。 哲学的ゾンビという思想がある。それは、人間と完璧に同じに振る舞うが、意識のない存在のことをいう。つまり外部から見ると、意識を持つ存在としか思えないが、実は意識がないという存在だ。そのような存在が現実にあり得るのかどうかは分からない。だが、論理的には哲学的ゾンビは否定できない。なぜなら、物理的世界における振る舞いは物理的な世界の法則性に従うから、意識が不在でも、完全に、意識がある存在と同じに振る舞うことができるはずだからだ。もしかすると、あなたの隣人は哲学的ゾンビであるかもしれない。 このように、意識の謎は解明されていない。そして、解明されることはないと思われる。だが、そうなると、蚊には意識がなく、犬にはあるという私たちの直観を正当化するものはないということになる。脳と意識の並行関係を解明することで、蚊には意識がないことを、人間と蚊の神経系の対比で証明できるのではないかと思われるかもしれない。だが、それは違う。そのような考えは、意識と脳の活動の並行関係が必然的な結びつきであることを前提としている。だが、その前提が正しいことを証明することはできない。ただ、人間では、脳の活動と意識の間にこれこれの並行関係、対応関係があるということが分かるだけで、他の並行関係、対応関係があることを否定することはできない。それは哲学的ゾンビを否定できないことと同じと言える。 人々は、蚊には意識がないが、犬にはあると考えて生活している。しかし、その明確な根拠はない。それゆえ、蚊にも意識があり、その生命は人間と同じくらい大切だと考え、蚊を叩くことを躊躇う者がいても不思議ではない。逆に、犬には意識がないとして、気に入らなければ棒で叩く者がいても不思議ではない。だが、現代においては、圧倒的多数の者が犬には意識があると考えているから、このような振る舞いは許されない。 いずれにしろ、人の意識も、犬の意識も、蚊の意識(の不在)も、共同体における暗黙の同意により承認されているに過ぎない。そのことは、将来、AIが高度に発達した暁には、AIにも意識を帰属させる可能性があることを示している。たとえば鉄腕アトムと同等のロボットが登場したら、そのロボットは意識を持っていると考える者が多数現れるだろう。ただ、それが人間にとって好ましいことかどうかは分からない。 了
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