☆ 数学と存在 ☆

井出 薫

 数学とは、数学的な記号で構成される公理や定理(公理から証明されている命題)から演繹規則に基づき別の定理を導出する学の体系を意味する。ここで、集合、圏、代数、幾何、解析、確率・統計などすべての数学を、有限個の公理と演繹規則から導出することができるかという問題がある。しかし、これについては、ゲーデルの不完全定理などから不可能だと考えられている。

 しかし、公理系からすべての定理が証明できるかどうかに関わりなく、こういう問いを立てることができる。「証明されていないが意味ある命題(例えばリーマン予想)は真であるか偽であるか、そのいずれかである。」という思想は正しいかという問いだ。これは、実質的に、数学的な定理は客観的な存在かという問いに等しい。もし、そうだとすると、現時点では証明ができていないが、リーマン予想は真か偽か、いずれかであり、それはすでに決まっていることになる。たとえ人類が滅んでも、あるいは宇宙からすべての知的生命体が消滅しても、リーマン予想は真、偽のいずれかになる。そのことを、数学的定理は人間の意思から独立した客観的な存在だと言い換えてもよい。

 おそらく、多くの者はこのような思想に同意すると思われる。数学の真理は客観的な真理であり、人間がそれを知っているかどうかに関わりなく真理だという信念は根強い。そして、それが、現代人が数学を過剰と言えるほど信頼する理由にもなっている。だが、本当にそうだろうか。

 今日、ある恒星に地球によく似た、生命体が存在可能な惑星が発見されたとする。その惑星は昨日から存在したのだろうか。つまり、発見される前から存在したと言えるのだろうか。哲学者以外の者ならば、「当然にそうだ」と言うだろう。そして、たとえ人類がその惑星を発見しなかったとしても、その惑星は存在している、(惑星が恒星の膨張で飲み込まれるなどの事象が起きない限り)その惑星は人類が滅んだあとでも存在する。つまり惑星は客観的な存在=実在と人々は確信している。そして、この信念は、哲学的には異論の余地があるとはいえ、常識的には正しい。たとえば月は人類が誕生する前から存在していたし、人類が滅亡しても存在し続ける。この考えを否定したら、物理学や天文学、いやすべての自然科学は無意味だということになる。

 数学的な定理も同じで、人類の存在とは無関係に真だという観念が人々にはある。だが、惑星や衛星、恒星と異なり、数学の公理や定理、演繹規則は、観測することも、実験で作り出すこともできない。物理法則のように、そこから様々な予測を引き出し、実験や観測の結果と照合することでその正しさを実証することもできない。それゆえ、数学は物理的な宇宙の実在の要素とは言えない。では、数学はどこに存在するのか。数学的プラトニズムという、数学世界に数学の定理などが実在するという思想がある。だが、そのような世界を発見した者はいない。これからも発見できないだろう。数学は、人間など知的生命体の思考に関する科学だという考えもあるが、人間の脳の働きをいくら調べても、数学は出てこない。むしろ脳は数学的には誤った推測に頻繁に惑わされている。

 では、公理や定理などは主観的な存在、精々のところ、間主観的な存在に過ぎないのだろうか。だが、主観的な存在に過ぎないとすると、私たちは自在に数学を作り替えることができるように思える。リーマン予想が真になる数学体系、偽になる数学体系、決定不能な数学体系、そもそも、リーマン予想などが存在しない数学体系など、何でも可能になる。間主観的な存在の場合は、自在には変更できないが、数学的な真理は、人類が滅んだあとは存在しないことになる。これは私たちの常識に反する。

 ウィトゲンシュタインは数学を道具と捉えた。だが、道具ならば、言葉という道具が自在に作り替えることが出来るように、自在に変更や創造が可能であるように思われる。だから、道具だとしても、数学は言葉と同じ種類の道具ではない。そこで、数学は、物理的な存在に関わる道具であるがゆえに、物理学的な拘束を受け、一般の言葉のような自由性を持たないという考えが出てくる。ところが、バナッハ=タルスキの定理(注)のような物理的な実在とは明確に矛盾するような定理があり、また、数学には物理学や天文学、建築設計などではなく、経営や経済から生まれた分野もある。それゆえ、このような考え(実は、筆者はこの立場なのだが)にも難点がある。
(注)一つの球面Aを有限個の断片に分割して張り合わせることでAと同じ大きさの二つの球面を作ることができるという、パラドックスめいた定理。

 数学を、存在という観点で論じることは無意味だと考えたくなるかもしれない。数学の定理は存在の問題ではなく論理の問題なのだ、こう言いたくなる。しかし、では、論理そのものはいかなる存在なのか。論理も存在の問題ではないというのであれば、それはどんな問題なのか。数学の存在を論理にすり替えても問題は解消されない。「このような哲学的な考察は無意味だということを悟れ!」という『論考』におけるウィトゲンシュタインのような立場もある。だが、現代人は、あらゆる場面で、数学を使って出来事を考察し、計画を立て、設計し、モノを作り、行動をして、コミュニケーションして社会を運営する。数学なしでは現代社会はまったく成り立たない。そして、実生活では哲学者を含めて人々は一人残らず数学を信頼し、考え、行動している。それゆえ、数学の存在について考えることを回避することはできない。ただ忘れることはできる。忘れていても困らないことは事実だが、何かを信頼するためにはその根拠を問うこと、つまりその存在の様態を問うことが欠かせない。たとえ、数学の存在を問うことが出口のない迷路だとしても、少なくとも、それがどのような迷路なのか、出口を探すことは無意味なのか、それを探求することは出来るし、意義がある。


(2021/12/4記)


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