☆ 独我論 ☆

井出 薫

 目が後頭部に二つ、左右の側頭部にそれぞれ二つあったら、どうなるだろう。前後左右、360度、同時にすべての方向を見ることができる。さらに頭頂部に一つ目があったら、空を含めてほとんどあらゆる方向が見える。このような生物が脳神経学的あるいは進化論的に可能かどうかは知らない。脳神経系の処理が複雑になるから現実的には難しいかもしれない。だが、あらゆる方向を同時に見ることが出来れば、獲物を捕らえ、天敵から逃れるのに便利だろう。それゆえ、論理的には、このような生物の存在を想定することはできる。

 では、人間がこのように多数の目を持つように進化したら、世界はどのように見えるだろう。目を閉じ想像してみる。だが、どうしても想像ができない。様々な方向の映像が前に並んでいる状態を想像することはできる。スライドが次々と切り替わり違う方向を映し出すところを想像することもできる。身体を回して四方を見渡すところを想像することもできる。だが、それらはいずれも、同時に前後左右、全ての方向が見えている状態とは違う。それは、地図が地球の姿とは違うのと似ている。要するに、顔に目が二つの人間には、同時に全ての方向が見える状態を想像することはできない。

 独我論という奇妙な哲学思想がある。この思想は、世界に真に実在するのは私ただ一人で、それ以外の存在者はすべて私の想像物に過ぎないと主張する。これを本気で信じる哲学者は私が知る限りでは存在しない。だが、独我論を論駁することは難しい。どのような事例を示しても、「それは私の想像に過ぎない」と再反論できるからだ。たとえば独我論者に向かって「目の前にいる私は君とは別の実在だ。」と主張しても、「目の前にいるように見え、「私は君とは別だ」と言う君の存在は私の想像にすぎない。」と言い返すことができる。そして、この議論には限りがない。一般的に言って、厳密に独我論を論駁することはできない。

 だが、前後左右が同時に見える状態を想像できないということは、独我論が間違っていることを示唆する。これに対して、そもそも前後左右の世界の存在が想像にすぎないと反論することは出来る。だが、独我論者でも、身体を回せば、周囲のモノや景色が順番に見えてくることを認めない訳にはいかない。たとえ想像物に過ぎないとしても、想像物そのものが前後左右に存在している、あるいは前後左右に存在するように想像していることを否定できない。ならば前後左右がすべて同時に見える状況を想像することが出来るはずだ。だが、それができない。

 もちろん、これは厳密な論駁ではない。だが、独我論が屁理屈でしかないことを示唆している。人間の感覚、知覚、それらはすべて身体の構造に強く拘束されている。そして、身体は他の者やモノと同様に世界に属する。なぜなら、私は私の身体を近くにある様々なモノや他者と同時に見ているからだ。世界は私の世界ではない。あるいは私の世界と世界そのものとは違う。


(2021/11/12記)


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