井出 薫
マルクスは労働には二重性があると言った。具体的有用労働と抽象的人間労働の二つだ。具体的有用労働は分かりやすい。農民は米や野菜、果物の栽培をする。コンピュータプログラマはプログラミングをする。介護士は介護を必要とする人たちの手助けをする。それぞれ貴重な労働だ。だが、そこに共通する抽象的人間労働なるものはどこから生まれてくるのか、何に根拠づけられるのか。これは簡単には理解できない。労働力はどのような労働でも出来ると言うが、現実には、プログラマに農業労働はすぐにはできない。介護士にプログラミングはすぐにはできない。そもそも、これらの労働は性質が全く異なる。使われる能力も、働きかける対象も異なる。さらに個々の人には、それぞれに他人とは異なる特性や経験がある。おかれている環境もすべて異なる。それゆえ、現実の労働は原理的に交換ができない。労働とは常に具体的有用労働として現れる。だが、マルクスだけではなく、近代経済学者も、マルクスとは用語やその使い方が異なるが、労働者の労働を抽象的な人間労働と捉えている。つまり、経済学では、労働は具体的有用労働としてではなく、抽象的人間労働として現れ、理論的な対象物となっている。 なぜ、抽象的人間労働という概念が生まれ、それがあたかも自明のものであるかのように語られるのだろうか。その答えは貨幣にある。貨幣は商品を媒介し流通させ、商品の価値を定量的に表現する。では貨幣の本質は何だろう。西洋では古くから貨幣は貴金属であった。そこから貨幣は労働生産物で、それ自身で価値を持つ存在だと考えられていた。マルクスにおいてもそれに変わりはない。一方で、中世の中国や日本では、それ自身は大した価値が無く、権力機関の命令で貨幣として流通した名目貨幣が使われていた時代がある。そして、むしろ、後者の名目貨幣に貨幣の本質がある。現代では貨幣のほとんどは銀行等の口座にある数字に過ぎない。それは管理通貨であり、金本位制時代のような実質的な価値、労働生産物としての価値はない。そして、それにより貴金属の量による制約を免れて資本主義経済は目覚ましい発展が可能となった。もともと貨幣とは本質的に、政府などの権力機関により価値が法的に保証された(実質的な価値を持たない)記号として存在していた。そのことは、実は、マルクスが『資本論』の価値形態論で(マルクス自身の意図に反して)示されている。マルクスは、貨幣とは、交換価値として現象する商品価値を使用価値で表示しなくてはならないという根源的な矛盾を解消するものであることを示した。だが、矛盾は解消されたのではなく、むしろ隠蔽されたとみる必要がある。だから、金融システムが整備された現代においても、信用不安が絶えない。貨幣は生身の肉体を持たない記号に過ぎないために、常に、何らかの出来事が原因で不安定化する。それは記号には物質的な重しがないからだ。 この貨幣の持つ根源的な記号性が、資本主義の市場で流通する労働力に反映され、そこに抽象的人間労働という観念が現れる。そこでは、賃金労働者の労働力が、貨幣により調達される生産手段と並んで生産力を構成する要素とされる。労働力の支出としての労働は、生産手段が商品価値という量的存在として思念されるのと同様に、抽象的人間労働という量的な存在として思念される。そして、そこでは、抽象的人間労働という観念がもつ幻想性が看過される。その結果、抽象的人間労働は概念へと昇格する。 それゆえ、資本主義においては、労働者は生産手段と同類のモノとなり、労働力とその支出としての労働は記号化される。カントは、人間は手段ではなく目的だと論じた。だが、資本主義においては、労働者は生産力を構成するモノであり、その本質が記号へと縮退している。つまり労働者は資本の手段となっている。それは現代においても、経営者においてそのように思念されている。経営者は雇用の流動化を盛んに要求するが、それはモノとその表象としての記号を資本に従属させるために、生産手段や商品と同じように流通させるべきであるというイデオロギーに基づいている。もちろん、現代の経営者の多くは、元は労働者であり、労働者の労働条件や生活環境に配慮する。より良い条件を与えることで、労働者を集めたり、その士気を高めたりする。だが、それでも、その根底には労働を抽象的な次元で捉え、労働者を抽象的な労働力の保持者としてしか見ない経営者たちが存在する。そして、そのことは資本主義社会だけではなく、共産主義を標榜した過去のソ連・東欧の共産圏や中国などでも共通している。抽象的人間労働を実体あるものとして捉えることで、労働者たちを共産党に従属させることになった。 労働者は具体的かつ個別的な存在であり、それは本来、カントが言うように目的であり手段化できない。そして、労働はあくまでも具体的有用労働としてのみ存在する。それは、単に職種の違いだけではなく、同じ仕事でも各人の個性がそこに現れるものとしての具体的有用労働として存在する。労働に抽象的人間労働を見るのは、精々のところ理論的な便宜性に基づくものでしかなく、それは本質的に貨幣が支配する資本主義におけるイデオロギーに過ぎない。 了
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