☆ 技術の支配 ☆

井出 薫

 第5世代移動通信システム(通称5G)の普及もまだまだなのに、もう第6世代の移動通信システム(通称6G)の研究が各国で始まっている。100Gを超える速度が得られ、これまで不可能だったことが出来るようになるとされる。

 00年代の3G、10年代の4G、20年代の5G、30年代の6Gという訳だ。速度が上がれば、出来ることは増える。とは言え、それにより、私たちの生活が本当に良くなるのだろうか。むしろ、4Gでも、できることはまだたくさんあるのに、そっちのけで速さ競争をしているだけではないか。

 まさに、ここに「技術の支配」という時代の姿が現れている。技術は人間の道具であり、目的を実現するための手段だとされる。だが、現代においては、技術そのものが目的化している。スマホは短期間で社会に浸透した。それは人々が(無意識のうちに)待ち望んでいたものだったから、などと言われる。だが、これは皮相的な見方に過ぎない。むしろ、人々がスマホという技術に短期間に馴染み社会に浸透したと解釈する方が相応しい。スマホは道具ではなく、むしろ人がスマホの道具となっている。

 なぜ、そうなるのか。資本主義だからと言う者がいる。資本は利益を求める。利益を得るために極めて有力な手段が、新しい技術を生み出すことだ。新しい技術で生産性を向上し利益を増やす。マルクスはこれを、必要労働時間を減らすことで生み出される相対的剰余価値生産と呼んだ。そして、現代では、新技術で新製品を生み出し独占的な利益を得ることもできる。さらに、資本主義のグローバル化で競争が激化し、ますます新しい技術への要求が増大する。だから、技術があたかも自律した存在であるかのごとく人々の前に現れる。マルクスは、これは資本主義に特徴的なことであり、共産主義では、技術は人の道具に戻ると考えた。

 だが、これはおそらく正しくない。たとえ共産主義が実現しても、それだけでは、人は技術の支配から逃れられない。技術とは、元来、身体の延長、または共同体のコミュニケーションの拡張として現れる。原初的な技術は、拡大鏡や杖のように、身体の直接的な延長として現れる。しかし、技術の発展と共に、技術は、身体性や共同体的な性格を失い、同時に技術が広く使用されるようになることで、自律して人々と対峙する存在へと変容する。だが、外化し自律化しても、技術は身体との接点を失わない。例えて言えば、私たちと技術はコンセントで繋がっている。スマホや家電は、まるで身体の一部であるかのようにすぐに身体に馴染む。インターネットやSNSは共同体のコミュニケーションそのものとなる。確かに、そこには原初的な技術に存在した身体や共同体との親密性は失われている。そこでは技術の両輪、知とモノは分離し、モノが支配している。だが、それでも、それが身体や共同体との接点を失うことはない。AIやVRは脳と、遺伝子操作は身体のケアと繋がっている。先にスマホは道具ではなく、人がむしろ道具であると述べたが、それが正しいとしても、スマホが人間の自然的な身体活動を無視していたら、それが普及することはない。あらゆる技術は、そのモノとしての側面において身体との接点が必ず確保されている。そして、この接点が人を技術に繋ぎとめる。ただ、そこにあるのは外化し自律化した技術であるために、人は道具として支配するのではなく、むしろ支配されることになる。これは時代の必然であり、資本主義を解体すれば解消されるものではない。

 斎藤幸平氏が『人新世の「資本論」』で提唱する脱成長コミュニズムが空想的に思えるのは、この技術の支配が逃れがたいものであることを看過していることによる。斎藤氏は、哲学的思考で世界を変えることが出来ると考えているように感じる。だが、哲学で技術の支配を克服できるとは到底思えない。ハイデガーが、技術の時代、ヘルダーリンの詩に救いを求めたのは、ある意味、無理はなかった。私たちは技術の支配を自覚し、それとどう付き合っていくかを考えるしかない。その意味では哲学は意義がある。


(2021/10/8記)


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