☆ 事実と当為 ☆

井出 薫

 事実(ある)と当為(あるべし)とは異なる。前者から後者は導出できない。多くの思想家がそう主張する。カントは、因果律を核とする理論理性と道徳律を核とする実践理性を峻別する。新カント派に学んだマックス・ヴェーバーも、学問は「何ができるか」、「何を望んでいるか」に答えを与えるが、「何をするべきか」には答えられないとした。論理実証主義者など論理的思考を重視する者たちも多くが同じ見解を取っている。だが、筆者には、この見解は間違っているように思える。事実(ある)から当為(あるべし)を導き出すことはできる。

 「困っている人がいたら、助けなくてはならない」、「彼は困っている」、「彼を助けなくてはならない」この道徳的三段論法は普通に使われる。この三段論法は、「太陽系の惑星は太陽の重力により楕円軌道を描いて運動している」、「地球は太陽系の惑星の一つ」、「地球は太陽の重力により楕円軌道を描く」と形式的には等しい。もちろん、前者の大前提は道徳的な要請であり、後者の大前提が事実を述べているのとは違う。それが反映されて、地球は必然的に楕円軌道を描くが、困っている人を助けるかどうかは確実ではない。困っていることが分かっていながら周囲が誰も助けないこともある。それでも、同じ形式の論理が使えることは、事実と当為に密接な関係があることを示唆する。

 「自分または罪のない者の命を助けるために他に手段がないなどの特別な場合を除くと、人を殺してはならない」は現代では世界共通の道徳律だと言えよう。この根拠は何だろうか。殺人は遺族や周囲の人たちの怒りと悲しみを生み出す。殺人はしばしば社会的な混乱を招く。時には戦争やテロを引き起こす。殺人は殺人者自身に疾しさの感情や後悔の念をもたらす。逆に、他人の命を大切にする人は信頼できる。自分であれ他人であれ命を大切にする人たちの共同体は安心して暮らせる。これらはすべて当為に関するものではなく、事実に関する言明に属する。事実は当為を導かないとすると、これら殺人がもたらす多くの禍と殺人を禁止することの利点に関する事実は、殺人を禁止する当為に関する規範とは論理的に無関係ということになる。しかし、これは不可解ではないだろうか。そもそも、「殺人」とか「殺す」という言葉には否定的な印象がある。つまり、殺人という概念を形成するときに、そこに否定的な印象を人々が持っていたことが示唆される。そして、印象を持つことは当為ではなく、事実に属する。だとすると、当為に関する命題の根拠となるのは事実に関する命題であり、それゆえ、事実と当為を切り離すことはできず、事実が当為を導くと考える方が妥当に思える。実際、歴史を見ていけば、事実の認識の集積が当為に関する規範を生み出している。不戦条約なども、戦争被害の大きさ、平和に暮らすことの利益の大きさ、争いよりも協力の方がより多くの便益を生み出すという事実から、生み出されている。

 現代人の多くは、推論とは、形式論理や数学のような矛盾を含まない厳密なものと考える。だから、曖昧さや矛盾を含む(可能性がある)推論は推論とは言えないという考えに縛られる。アリストテレスは理性的な認識をエピステーメ(知識)、根拠に乏しい信念をドクサ(臆見)と呼んだ。そして、哲学とはエピステーメを求めるものだとした。以降、西洋哲学は、ニーチェや一部のポストモダニストのような例外を除くとアリストテレスの指示に従い、ドクサを排してエピステーメを追い求めてきた。そして、その過程で、数学の目覚ましい成功を受けて、数学的な無矛盾の体系こそがエピステーメの典型だという見解にとらわれることになる。

 ウィトゲンシュタインはチューリングと論争して、「なぜ矛盾があってはいけないのか」と問う。チューリングは「矛盾を含む数学を使って橋を設計したら、橋は落ちてしまう」と指摘する。これに対してウィトゲンシュタインは「矛盾がある数学も使い道があるのではないか、矛盾を恐れる必要はない」と応答する。私たちの多くはチューリングの方が正しいと思うだろう。矛盾を含む数学は原理的にあらゆる命題が導出される(肯定命題も否定命題も導き出される)から、使い物にならないと考える。確かに矛盾を含まない数学の方が安心して使えるのは事実で、チューリングの指摘する通り橋の設計には矛盾を含まない数学を使う方が好ましい。だが、現実には、矛盾や曖昧さを含む論理が多く使用され、それで社会は円滑に動いている。「明日は彼の誕生日だ」、「そうか、では彼を誘って飲みに行くか」これは全くいい加減な論理だが、よく使われるし、こういうことで円滑な人間関係が築かれる。もし、数学的に厳密な論理だけを追求していたら、いかなる決断も出来ず、人は家から出られず、企業は経営できず、政治家は一切の政治的な決断が出来なくなる。そして、現実には、常に矛盾や曖昧さや不完全さを含む決断がなされて社会は、人は動いている。さらに、そもそも、厳密さの極致とされる数学や理論物理学が本当に無矛盾で絶対的な真理を表現しているかは誰も分からない。それは数学者の信念に過ぎない。推論には、曖昧さ、不完全さ、時には矛盾が含まれているのが普通であり、数学的に厳密な推論はそのごく一部に過ぎない。カントやヴェーバーの推論も曖昧で、不完全であり、ときには矛盾していると思われることがある。だが、そのことは彼らの偉大な業績を否定しない。真理=数学的に完全な真理ではないからだ。これらのことを認識すれば、事実から当為を導くことができると考えてよいことが分かる。

 また、事実が当為を導かないとすると、道徳律は天下り的に与えるしかなくなる。それは必然的に自然法思想に繋がるが、人間社会から自律した自然法なる世界を想定することは難しい。それこそドクサだろう。自然法思想には、道徳の重要性を示し、またご都合主義的な道徳観を批判するという優れた面もあるが、独裁や思想統制へと繋がる恐れもある。自然法的な思想の良い面を保持しながら、道徳についても法律と同様に人々が現実の共同体的実践を通じて定めていくものと捉える方がよい。そこではまさに実践により得られる経験(事実)から道徳(当為)が導き出される。

 私たちは現実の世界に生きるのであり、思想の世界に生きるのではない。思想は生きるための道具なのだ。それゆえ、当為は現実世界の事実から導き出される。


(2021/9/20記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.