☆ 技術を問うことの難しさ ☆

井出 薫

 多くの哲学者たちが技術の本質を問うてきた。だが、結論が出ていない。結論がでていないどころか説得力ある論考がほとんどない。難渋なハイデガーの『技術への問い』がいまだに最高のテクストとして扱われているところにそれが如実に現れている。筆者も様々な観点から思索をしてきた。だが、ゴールに近づくどころか、考えれは考えるほどゴールは遠ざかる。

 まず、難しいのは「技術」という言葉が実に多様な使われ方をしていることだ。それゆえ、「技術とは何か」と問うた瞬間、「そもそも君は技術という言葉で何を意味しているのか」という難問を突き付けられる。技術は現代では、科学の応用という意味で使われることが多く、しばしば科学技術という表現が使用される。だが、言うまでもなく、技術という言葉は科学の応用に限らない。スポーツ選手、芸術家などの素晴らしい腕前を褒めるとき、「彼(女)は素晴らしい技術を持っている」と表現する。これは科学とは関係ない。このように、技術を厳格に論じようとすると、「技術」という言葉の定義から始める必要がある。しかし、どのような定義をしても不十分で曖昧さが残る。曖昧さをとことん排除すると、今度は、技術という言葉が指し示す範囲が狭くなりすぎ、それはそれで技術の本質を問うには相応しくなくなる。

 技術には、道具という面と、道具を操る知という面の両面がある。一般的に、技術の定義を辞典などで調べると、知という面を強調していることが多い。しかし、道具という客体的な側面は決して無視できない。マルクスが歴史の原動力と考える生産力には技術が含まれるが、その場合、客体としての機械などの道具が無視しえない要素となる。だが、いずれにしろ、技術を十全に理解するためには、主体としての知と、客体としての道具の両面を考察する必要がある。だが、そうなると、知と対象、主体と客体という哲学の最難関問題に直面することになる。それはアリストテレスとハイデガーによって哲学の第一問題とされた「存在とは何か」という問い、誰も答えられない問いにほとんど等しい。

 そして、技術は、科学や哲学などと異なり、あくまでも具体的、特殊的、個別的な事象に用いられるものであり、抽象化・理論化が容易ではない。下手に抽象化すると、技術の本質が看過される。堤防が決壊したとき、応急措置をどうするか、如何にして住民の安全を確保するか、これはまさに技術の問題だが、その場で起きている出来事は唯一無二であり、科学的あるいは技術的な知見や過去の事例などが参考になるとはいえ、それらはあくまでも参考であり、どうするかはその場にいる者が状況に応じて判断しないとならない。危険が迫っているときには猶予はない。つまり、技術は往々にして実存主義的な決断に関わる。緊急時だけではなく、平時でも、機械は常に故障する可能性があり、ソフトウェアには常にバグが潜んでいる可能性があり、オペレータはミスする可能性がある。そういう状況でいかにするか、すべきかは必然的に実存的な決断に似たものになる。コンピュータシステムに故障が起きた時、電源をまず切るか、電源を入れたままで復旧を図るか、過去の事例や理論的な計算では答えがでないことがある。その場合、責任者の判断で作業を遂行することになる。そして、結果が悪ければ、責任者が責任を取る。「人間は存在が本質に先立ち、机など人間以外の者は本質が先立つ。」とサルトルは述べたが、技術も、また、ある局面では存在が先立つ。つまり技術には、科学とは異質な個別性、具体性という本質的な性質があり、それが技術の本質を問うときに乗り越え困難な壁となる。

 このように、技術を問うことは難しい。いな、技術への問いは、「存在とは何か」という問いと同じで、永遠に続く迷路なのかもしれない。だが、それでも、技術が人々を、世界を、その歴史を主導する存在となっている現代、その問いを回避することはできない。


(2021/9/16記)


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