☆ 二つの命題 ☆

井出 薫

 二つの命題がある。
@「プロテスタンティズムの職業倫理が資本主義の精神を生み出し、資本主義を発展させた」
A「巨大隕石が衝突して恐竜が滅び、それにより哺乳類が栄えた」
この二つの命題はどこに違いがあるのだろう。

 本稿ではこの疑問に答えるのではなく、議論すべき論点を幾つか示す。なお、本格的な議論は別の機会に譲る。

 まず、@の命題は社会現象に対するものであり、Aは自然現象に対するものであるということが指摘できる。だが、社会現象と自然現象はどこが違うのか。社会現象も自然現象の一部であり便宜的に社会現象と呼んでいるに過ぎないという立場がある。これに対して、社会現象と自然現象は異質なものであり前者を後者の一部として捉えることは出来ないという立場がある。そして、両者を異質なものとして捉える場合でも、両者の差異は存在論的なもの、つまり自然現象と社会現象は異なる存在領域だとする立場と、両者の差異は認識論的なもの、あるいは実践論的なものだとする立場がある。さらに、社会現象と社会、自然現象と自然を同じものとして捉えることができるか、それとも異質なものとして捉えるべきかという問題がある。カントは現象と物自体を峻別する。そして人間が認識できるのは現象のみだとする。カントによれば、認識可能なのは社会現象と自然現象であり、社会、自然そのものは可想界に属し認識不可能ということになる(注)。ヘーゲルは、「本質は現象する」と論じているが、これは社会や自然と社会現象、自然現象の間に深い結びつきがあることを示唆しながらも、両者には差異があることを示していると考えてよいだろう。だが、カントとヘーゲルの考え方は観念論的なものであり、唯物論的な立場を取ると、現象と物自体との差異は便宜的なものに過ぎないという議論が成り立つ。
(注)正確に言えば、カントはもっぱら自然現象について論じており、社会現象については議論していない。そこで、新カント派の哲学者たちは、カントを補完すべく社会現象の認識について議論を展開した。ちなみに、マックス・ヴェーバーが新カント派の影響を受けているという意見がある。

 次に、因果構造について議論する必要がある。@もAも、形式的には、A(プロテスタンティズムの職業倫理、隕石衝突)→B(資本主義の精神、恐竜絶滅)→C(資本主義発展、哺乳類の繁栄)という共通する因果構造を持つ。しかし、両者の因果構造を同種のもとして捉えることは正しいだろうか。これは先の論点、社会現象と自然現象の差異に関する議論とも関連する。また、記述の差異に関する議論とも関わる。たとえば、同じ事象でも、「日が暮れて暗くなったので電灯を点けた」という説明と、「視細胞への入射光の減少が脳内の電気化学的な反応を引き起こし、手足の筋肉を動かして電灯のスイッチを動かした」という二つの説明がある。前者を行為の理由を述べたもの、後者は行為の背景にある脳神経系の働きを物理因果的に述べたものと解釈することができる(注)。同じような違いが@とAの因果構造にあるのではないだろうか。この問題は社会現象と自然現象の差異に関する議論と結びつく。ただ、それに還元されるものではない。ここには、「因果」という私たちの知識において重要な位置を占める原理原則が、そもそも何なのかという問題が現れている。
(注)この解釈が妥当か、妥当だとして二つの説明があるのはなぜか、こういう問題があるが、本稿では課題として残し、議論しない。

 さらに両者の差異について、発見法的な観点、及び、検証方法の観点から議論する必要がある。これら二つの命題を構成するために、どのような手続きを踏むことが必要であるか、あるいは、これらの命題の正当性をいかにして検証するかという問題がある。二つの命題では、それぞれの正当性を検証するための方法・手段は明確に異なる。@は文献や資料、聞き取り調査などから検証する。Aでは地層の観測や絶滅前後の恐竜と哺乳類の分布、可能であれば遺伝子などから検証する。ただ、両者とも共通する面もある。それは、いずれも、実験室で再現試験をすることで検証することはできないということだ。また、ポパーは科学的な命題である条件として反証可能性が不可欠であると主張するが、二つの命題に反証可能という条件が成り立つだろうか。Aについては一見したところ問題ないように見える。根拠とされる恐竜絶滅時代の地層のイリジウム量に関する測定が正しくなかった、あるいはイリジウム量が増えている原因が隕石衝突以外の他にあることが証明されるなどにより反証されうると思われる。だが、それでも、隕石衝突の痕跡が確かに存在することにより隕石衝突・恐竜絶滅論は生き残るかもしれない。それゆえ厳密な意味で反証可能性があると言えるかどうかには疑問が残る。@については、尚更、反証可能性があるかどうか疑わしい。そもそも、@もAも確固たる検証方法があるとは言い難く、それゆえ反証もまた容易ではない。

 このように、二つの命題に差異があることは明らかだが、それをどのように論じるかは、様々な視点があり、またさまざまな方法がある。ここで取り上げた論点以外にも論点はあるだろう。いずれにしろ、この単純な比較事例に、およそ哲学が問題とするほとんどすべての論点を見出すことができる。哲学的な議論は常に私たちのごく傍に、そして常識とされていることの中に在る。


(2021/8/27記)


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