☆ 動物の心、機械の心、他人の心 ☆

井出 薫

 ベンサムは、話すことができるかどうかより、苦痛を感じるかどうかの方が重要だとして、動物の権利を主張した。だが、本当に動物は苦痛たとえば痛みを感じているのだろうか。犬や猫など高等動物が痛みを感じていることは疑いようがないように思える。では、蚊や蟻は痛みを感じるだろうか。感じているようには思えない。もし感じているとすると、腕にとまった蚊を叩くことはかなりの罪悪感を伴うことになる。では、魚はどうか。

 『魚は痛みを感じるか?』(ヴィクトリア・ブレイスウェイト、紀伊國屋書店、2012)の著者によると魚は痛みを感じているという。その根拠は、魚には、人間の痛みに関する神経系と類似の神経系が存在するということと、人間の痛みに関する振る舞いと類似した振る舞いが見られるということにある。

 著者の論拠は広く動物一般や機械に当てはめることができる。神経系の類似性、行動の類似性、この二つを基準に苦痛を感じる能力を診断する。犬や猫は当然にどちらも成り立つ。蚊や蟻はどちらも成り立たないから、痛みを感じていないと判断することができる。ロボットは技術が進歩すれば、本当に痛みを感じているように振舞うことができるようになるだろう。だが、ロボットには人間の神経系と類似するものはない。だから、やはり痛みは感じていないと判断することができる。

 だが、このような外部から観察可能な構造や行動から、「痛みの感覚」が本当にあると推論することは正しいのかという疑問がある。哲学者は、外見や振る舞い、そして脳の構造まで人間と寸分違わぬが、意識を持たない存在=哲学的ゾンビなる存在を仮定することで、このような推論は成立しないことを示唆する。もちろん、哲学的ゾンビが現実に存在しうるかどうかは定かではない。だが論理的には考えられうる。だから、痛みの感覚の存在を、上のような類似性だけを根拠に導き出すことはできないと哲学者は考える。

 この議論は、感覚だけではなく、意識とか心と呼ばれる現象に対しても成り立つ。それゆえ、動物や機械に心や意識があるかどうかを外部から観察可能な構造や行動から判断することはできない。そして、このことは、自然科学的方法で、動物や機械が心を持つかどうかを決めることは出来ないことを示唆する。ただ、自然科学的な知見を引用して便宜的に心を持つかどうかを社会的に決めているに過ぎない。蚊や蟻が心を持つと考えると何かと厄介なことになる。先に述べた通り、蚊を叩くことに罪悪感を覚えることになるからだ。また機械が心を持つとすると解体することができなくなる。だから、二つの基準に該当しないことを理由に心がないことにしている。

 だが、だとすると、他人が心あるいは意識を持つかどうかを判断することもできないことになる。貴方の家族や隣人が哲学的ゾンビではないことを証明する術はない。しかし、これは何か奇妙なことであるように思える。


(2021/8/6記)


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