☆ 倫理と法(その3) ☆

井出 薫

 原始時代には倫理と法の区別などなかった。いつ、どのように、なぜ倫理と法は分離したのだろうか。

 古代ギリシャにおいて、ソクラテスは「悪法も法なり」と言って、死刑を受け入れた。ここには、悪法と判断するための倫理と、それでも従うべき法との分離をみることができる。だが、本格的に両者が分離するのは西洋近代以降だと言えよう。政教分離、聖なる領域と俗なる領域との分離、統治の合理化を促した法治主義、個人主義などが両者の分離を促した。イエスは「心の中で姦淫する者は、すでに姦淫している」と警告しているが、現代では、このような考え方が現実に採用されることはない。悪を想像しても、それが犯罪につながらない限り罰せられない。こうして、倫理と法は明確に分離されるようになっている。もちろん、倫理と法が無関係になったわけではない。法の根底には倫理があり、倫理が法により影響を受けることもある。ただ、両者の間に解消できない差異が生まれたことは間違いない。

 だが、なぜ分離しなくてはならなかったのだろう。倫理をそのまま法にすることはできなかったのだろうか。イエスの言葉が手掛かりを与える。人は他人の心を知ることはできない。どうしても知ろうとすると、その人が拒む場合は、脅迫をすることになる。また、人の心は移ろいやすく、何を望んでいたか、何を想像していたか、あとになると本人ですら定かではなくなる。心の中で姦淫する者はそれをすでにしたも同じだと言われても、神の子であるイエス以外には、姦淫を想像したかどうかは分からない。それゆえ、合理的な社会運営のための基礎となる法においては、外部から観察できる出来事、あるいはあとから確認できる記録から、当該行為の正当性を判断するしかない。それゆえ、たとえ意図が悪いものであっても、その行動が他人に被害を与えない限り、法的には問題にならない。ここから必然的に法は倫理から独立した存在となる。

 法は、それを支持しない者にとってもその意味が明確であるのに対して、倫理には不確実性があり人により違いがある。第一回で、児童を守るために自らの命を犠牲にすることが倫理であると論じた。だが、それには異議を唱える者もあろう。自分の命を何より大切にすることが倫理の大原則という考えも成り立つし、実際、そう考える者もいる。自分の命を守るために児童が犠牲になっても、責任はそのような仕掛けをした犯罪者にあり自分にはない。自分の命が救われる方法があるのにそれをしないのは倫理に適うとは言えない。こういう論理も成り立たないわけではない。このように倫理には不確実性があり、それを基礎にして社会を運営することは合理的ではなく、独裁政治に陥る危険性すらある。

 こうして、現代においては、倫理と法は関係性があり、また倫理が法の根底にあるとはいえ、現実的には倫理と法は分離している。そして、それは、西洋近代の合理化過程において、重要な役割を果たしていると言える。


(2021/7/23記)


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