☆ 倫理と法(その2) ☆

井出 薫

 前回、倫理と法の差異について論じた。しかし、倫理と法の差異については様々な議論の仕方がある。

 「倫理」とほぼ同じ意味で用いられる言葉として「道徳」があるが、本稿では、両者を特段区別しない。通常、両者はほぼ同じ意味で使用されているし、無理に区別する必要もない。ヘーゲルは両者を明確に区別し、道徳を主観的な規範、倫理を規範と社会制度の統一と捉えた。ヘーゲルにおいては、倫理は道徳よりも、より高次の精神の現れとなる。しかし、ヘーゲル哲学の核心をなすのは精神(ガイスト)であり、そこから倫理と道徳を峻別する必要が生じているが、ヘーゲル哲学に固執しない限りは、このような区別をする必要はない。ヘーゲルにおいて、倫理という概念の下で論じられる家族、市民社会、国家はいずれも、現実の人間の結合体であり、倫理という概念で把握する必要はない。倫理はこれらの結合体の性質の一つとみることができるからだ。それゆえ、本稿では倫理という言葉を使用するが、倫理という言葉を道徳という言葉に置きかえても変わるところはない。

 前世紀を代表する法哲学者の一人、ハートは、倫理(注)と法の違いをこう説明している。法は人間が定め、変更し、廃止することができるが、倫理はそのようなことはできない。これは一見、倫理を自然法として見ているように思えるかもしれないが、そうではない。ハートはいわゆる法実証主義者であり、自然法については語っていない。ハートは、倫理とは、共同体内で自然発生的に生まれ継承されてきたものであり、共同体の中で変更され、廃止され、新たに作られるが、法のように明確に改正、削除、新設することはできないと考える。そして、そこから、ハートは、法を、一次的な規則と、一次的な規則を新設、改正、廃止するための二次的な規則の統一体として把握する。今の日本で言えば、施行されている法律が一次的な規則であり、国会による法の制定、改正、廃止の手続きが二次的な規則となる。このように、法は改正するための規則が定められている規則とみることが出来る。そこでは一次的な規則だけではなく、二次的な規則も共同体の成員により明確に認識されている。ただし、このことは法がすべて制定法であることを意味しない。不文律も、それが、人々が(不同意も含めて)明確に理解できるものであればよい。
(注)ハートは「倫理」ではなく、「道徳(モラル)」という言葉を使用しているが、先に述べたとおり、倫理と道徳を区別しないので、本稿では倫理という言葉に置き換える。ハート自身も道徳と倫理を特段区別していない。

 ハートは、しかし倫理はそうではないという。倫理も一つの規則の集合体としてみることはできる。だが、この規則を変更する明確な二次的な規則は存在しない。倫理が、法のように冷静な討議や国家の指導者の命令を通じて変わることはある。しかし、カリスマ的人物の言動、衝撃的な事件、敗戦や秩序の崩壊、共同体の外部との交流などを通じて、倫理は徐々に、あるいは急激に、不確実かつ明確な根拠が不在のままに変わることが多い。一つの芸術作品、一つの写真が人々の倫理観を大きく揺るがせ、大きく変えることもある。倫理を規則の集合体としてみることができるとしても、それを変える規則は存在しないか、または存在するとしても無数にありどれが適用されるか予測が出来ない。やはり前世紀を代表する法哲学者の一人、ケルゼンは、法は形式により正当化される(手続きの妥当性)、倫理(道徳)は形式ではなくその内容で正当化されると論じている。ハートとケルゼンは考えが違うが、法と倫理の対比においては、ほぼ同じ立場をとっている。法の正当性は、正当な手続き=二次的規則の適用により根拠づけられる。しかし、倫理はそうではない。

 ハートやケルゼンの思想は、自然法の実在性を否定する法実証主義の立場から導かれている。一方、ドウォーキンはハートの法実証主義を批判する。そして、法と倫理を明確には区別せず、認識論的な次元において法と倫理は相互に関係し制約しているとする。この立場では、倫理と法には実質的な差異はなく、倫理は法を制定するうえで、自然法のような意義を持つ。そして、倫理を実定法に先立つものとして認識し、適切に解釈することにより正しい法が制定され、運用されることになる。ドウォーキンにおいては倫理と法の差異は便宜的なものに過ぎない。

 確かに、ドウォーキンの立場には一理ある。ハートやケルゼンの立場では、倫理に反する法でも、制定の手続きが妥当であれば正当と解釈される恐れがある。人権を無視する法律も、憲法の根本理念を否定する憲法改正も手続きに沿って制定されたのであれば正当ということになりかねない。たとえば、法の下での平等という理念に反する条項、男は女よりも尊重されるというような条項を追加する憲法改正案が、衆参両院の3分の2以上の賛成、国民投票での過半数の賛成で可決されたとしても、そのような憲法改正は正当なものとは言えない。手続きに沿っていればすべてが許されるわけではない。

 とは言え、倫理が法とは異質であることは、前回の議論が示している。また、上のような憲法の精神に明確に反する憲法改正も、それが憲法に定められた手続きを経て成立したものである限りは、現実問題としては法的拘束力を有してしまう。それゆえ、存在論の次元でも、認識論の次元でも、事実的にも、倫理と法は異質な性格を持つと考えるしかない。しかし、それでも、倫理と法を分かつことが出来ない密接な関係にあると主張するドウォーキンの思想は無視できない。また、ハートもケルゼンも、法の下での平等に反するような憲法改正は認めない。二人とも、その意味では、自然法的な考えをその思想に含んでいる。実際、ケルゼンは根本規範という自身の主張に自然法的な側面があることを認めている。このように、法哲学の分野においても、倫理と法の問題は決着のつかない難しい問題であることが分かる。


(2021/7/16記)


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