☆ 倫理と法 ☆

井出 薫

 私は爆弾の仕掛けられた部屋に拘束されている。外に逃げることはできない。連絡することもできない。爆弾が爆発すれば確実に私は死ぬ。爆弾のスイッチは部屋の中にあり、切ることは出来る。しかし、スイッチを切れば、その瞬間、たくさんの児童が授業を受けている小学校に仕掛けられた強力な爆弾が爆発する。そうなれば、多数の児童や教師が死傷する。私が死を受け入れ部屋が爆発すれば、小学校に仕掛けられた爆弾は自動的に解除され児童たちに被害が及ぶことはない。そして、そのことを私はすべて知っている。私は爆弾のスイッチを切る権利を有しているだろうか。

 憲法では、国民は個人として尊重され、幸福追求権が認められている。犯罪をしない限り、死が与えられることはない。そして、犯罪で罰せられるのは、その行為が不可抗力ではない場合に限られる。スイッチを切らなければ私は死ぬことが確実なのだから、生きるにはスイッチを切るしかない。これはまさしく不可抗力と言える。だから、私にはスイッチを切る権利がある。

 このように、法的にはスイッチを切る権利がある。しかし、倫理的には、私は自らの命を捨て児童たちを守ることが求められる。ここに、倫理と法の差異がある。ルソーは全体意志と一般意志を峻別する。全体意志は市民全体の総意による意志だが、一般意志とはそれを超えた普遍的な理念に基づく意志を意味する。まさに、この事例は全体意志と一般意志の差異を示す。一般意志は時には市民に死を命じる。そして、その時、市民はそれに従う義務がある。

 現代の欧米の価値観、自由と民主を普遍的な理念とする社会は、法を重視する。私がスイッチを切っても罰せられることはない。死んだ児童の親たちは私を恨むかもしれないが、多くの者は私の行為をやむを得ないものとして容認する。逆に、私が児童を救うために命を捨てたとすると、英雄として称賛される。私の墓に人々は花束を捧げるだろう。これが自由と民主を理念とする社会の現実だ。だが、新型コロナのパンデミックで、自由と民主の理念が揺らいでいる。自由の権利を盾にして、ロックダウンや緊急事態宣言の下での行政からの要請を無視する者がいる。要請が感染拡大を抑えて死者を減らすために必要な合理的なものであることが分かっていても無視する者がいる。それは政府が十分な経済的補償をせず、孤立して苦しんでいる者たちへの支援をしないからだという意見がある。確かに政府は十分な支援をしていない。だが、たとえ政府が十分な支援を行ったとしても従わない者は多数出てくる。その結果、自由と民主を理念とする欧米諸国が、世界で最も豊かで、衛生環境も医療環境も最もよいのに、一番多くの死者を出している。中国は民主に欠けるが、感染を抑止することに成功し、人々は政府の行動に満足して愛国心を強くしている。法を重視することは大切だが、法を超える倫理が存在するという気持ちを失い、法がすべてという感覚に市民が支配されるとき、社会は分断され、自由は我が儘に転化する。先進資本主義国の病理は、まさに、この状態に陥っていることにある。それが新型コロナの感染爆発に現れたとも言えよう。

 だが、倫理を過大視し、法を軽視することが極めて危険であることは言うまでもない。普遍的な理念とか理想、人類の救済などという美名のもと、狂信的な者が支配権を握り、意に反する者たちを殺戮、抑圧するという惨劇が、歴史上如何に多かったことだろう。ルソーの一般意志は使い方を間違えると、真逆の独裁や虐殺に繋がる。

 このように、倫理と法をいかに整合させるかという問題は難しい。倫理が欠如した法の支配は、放恣と混乱を呼び、ポピュリズムを生み出す。法を軽視する倫理は、独裁と虐殺を生み出す。ヘーゲルは、その哲学体系の中で、国家という場において両者を統一することができるとした。だが、それは空理空論に過ぎず、問題の解決にはなっていない。これは理論の問題ではなく、実践の問題なのだと言うことは出来る。しかし、そう言ったところで、では何をするのかというと、答えはでない。

 科学と技術、産業の拡大で、いまや人間は自らを全滅させることができるほどの力を手にしている。その実行を阻止するのは、倫理や法ではなく、死ぬのは嫌だという私利の感覚と、脆弱で通用する範囲が限られているが、たいてい誰にでも備わって利他的な感情と振る舞いだ。だとすると、倫理と法を整合させ、調和ある社会を実現するためには、法と倫理という言わば理念的な場に留まるのではなく、その根底に在る私利と利他の感覚と行動を吟味し、その感覚と行動を生み出し育んでいる共同体の在り方を見直し、その土台の上に倫理と法を基礎づけることが必要となる。そして、ここで、共同体の在り方とは広い範囲を含むことを見落としてはならない。それは倫理や法に関する思想や政治だけに関わるものではなく、経済、文化、慣習、技術などを含む。ただ、そのように言うと、それは解決不可能な問題を解決しようとする企てであり、意味がないという批判があろう。議論の土俵を限りなく広げることで、議論を無意味にしてしまうということはよくある。だが、その点に注意しつつも、この気が遠くなるような議論を始め、続ける必要がある。すでに、人間は制御しきれないほどの力を手にしている。特に技術において、それは著しく高い段階に達している。誰もが納得する答えを得ることなど不可能であることは分かっている。しかし、考えること、問うこと、権力や権威に頼らず討議を続けること、これを放棄することは許されない。放棄すれば、法なき倫理又は倫理なき法の下で社会は崩壊する。


(2021/7/9記)


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