☆ スマホと身体 ☆

井出 薫

 スマホが手放せないと言う者が増えている。ネットワークの大規模故障や自然災害などでスマホが使えないとパニックが起きる。

 どうしてそうなったのだろう。それを人は望んだのだろうか。別に望んだ者はいない。結果的にそうなった。このことは、技術が世界を支配する、技術が世界の在りようを決定するという技術決定論に繋がる。

 原初的な技術たとえば金槌や杖などは身体の延長という性格を持つ。人は、進化の中で技術を用い身体を延長して活動範囲を広げて繁栄してきた。身体の延長だけではなくコミュニケーションにおいては狼煙などの原初的な技術が共同体という共通的な身体の拡張という性格を有する。自然素材による薬の調合なども身体の振る舞いの延長と捉えられる。それが、時代と共に、技術が進化し、身体から技術が独立していく。さらに、技術に関する知とモノが分離しそれぞれ自律していく。現代では、メガネ、大工道具、食器などごく身近な技術を除くと、技術は身体の延長という性格を失っている。

 それにも拘わらず、スマホは身体の延長という色彩を帯び、現代人の行動の中で、まるで身体の一部であるかのように機能している。なぜだろう。技術は人間の道具であり、機能だけではなく形状が大きな役割を果たす。原初的な技術はモノの形状が身体とフィットしている。一方、発電所と送電網、航空機と空港、列車と線路・駅舎、自動車と舗装された道路、通信網などは身体には余所余所しいものであり、身体の延長という性格は消え失せている。スマホはどうだろう。スマホは身体にフィットする。一時誰もが携帯していたウォークマンも同じだった。

 だが、忘れてはならないことは、杖や金槌はその動作原理や素材について使用者がよく知っているが、スマホは違うということだ。スマホの動作原理や無線通信技術を理解している者はほとんどいない。また、そこで使われる希少金属がどこでどのように採掘されるかは、利用者は勿論、設計者や製造者ですら知らない。利用者はそれゆえ、ほとんど何も知らないまま、ただ皮相的な使い方だけを知っている。故障したときに修理することなど到底できない。できることは精々電源をオフオンすることくらいしかない。金槌は自分で修理できるし、身近な素材で代用品を作ることもできる。その点ではスマホは原初的な技術の対極にある。ただ、身近にあるという点では原初的な技術に近い。

 そのことは、スマホと身体の延長としての原初的な技術は同じ身近な存在であるという性格を共有しながらも決定的な差異があることを意味している。原初的な技術では、人はそれを能動的、真の意味で身体の一部として使用する。それはハイデガーの表現を使えば手許存在という性格を持つ。一方、スマホは、利用者は能動的に使っているつもりでも、受動的に使っているに過ぎない。スマホに使われていると言ってもよいかもしれない。だから、基地局設備の故障などで通信できなくなると、何もできないし、そもそも何が起きているのかすら分からなくなる。端末が悪いのか、ネットワークが悪いのかも判断できない。ハイデガーの表現を使えば、それは一見したところ手許存在だが、実際は目の前存在だということになる。

 このように現代社会では、技術が人を支配するという状況、技術決定論的な状況が生じている。もちろん、これには異論がある。「スマホという技術が支配しているのではなく、スマホを通じて情報を提供し人々の行動を制御しようとする者たち、スマホを通じてアプリや商品を売りつける者たちがスマホの利用者を支配している。現代は労働現場で搾取をするのではなく情報流通の中で搾取する。まさにそこに在るのは物象化−人と人の関係がモノとモノの関係として現れること−であり、技術の呪物化−技術そのものに人を支配する力があるとする幻想だ。それが技術決定論という思想を生み出す。」だが、情報を提供する側も同じように技術に振り回されている。何が起き、何が起きうるのか知らないままに、行動に駆り立てられている。そして利用者と同じようにネットワークやサーバに故障が発生するとお手上げになる。情報提供者も利用者も共に技術に翻弄されている。その点では、スマホやネットワークの技術者や事業者なども変わるところはない。確かに、技術がすべてを決定するという単純な技術決定論は間違っている。だが、技術が現代社会において人々の思惑を超えて支配的な地位を占め、人々が技術に翻弄されているのは間違いない。

 科学や技術に対する人々の知識は増えている。だが、現代技術の知とモノは、個々の人間の理解を遥かに超えている。そして、知の細分化の下で、知に対するモノの優越が顕在化することで、唯物論的な思考が広がる。現代人の思想は、おおむね、無意識のうちに、唯物論的で技術決定論的なものとなっており、また社会のシステムがそれをなぞるものとなっている。いや、社会がそうなっているから、人の意識もそうなっていると言うべきかもしれない。

 これは産業の拡大と技術の進化が必然的に生み出す状況とみることは出来る。だが、それを安易に歴史的必然として捉えるべきではない。利用者も情報提供者もスマホを使いこなしているつもりで、スマホに支配されているという状況を認識し、それに対して自覚的かつ批判的に振る舞う必要がある。さもないと、人は技術の奴隷になり、様々な問題たとえば温暖化を技術で解決しようとして新たなより深刻な問題を生み出すことになる。


(2021/6/18記)


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