☆ 社会科学と自然科学(試論) ☆

井出 薫

 社会科学と自然科学は何が違うのか。対象が違うだけで同じだと論じる者がいる。世界で最も読まれている経済学の教科書『マンキュー経済学』には、経済学は生物学や物理学と同じで、データを収集分析し、数理的なモデルを構築して経済現象を説明したり予測したりする学問であると説かれている。一方、経済学史のハイルブローナーなどは、経済学は自然科学のような意味での科学ではないと論じている。経済学は、政府、企業、消費者がどのような行動をとるかを検討するための道具、処世術のようなものだと言う。何れの立場にも一理ある。資本主義社会では、膨大な数の生産者、消費者、政府が市場を介して様々な財を取引する。取引の数は膨大で、全体的には、個々の取引の差異が平均化され自然現象のような挙動が見出される。その一方で、人間は意思を持ち、自然科学の対象のように法則に従い運動するだけの存在ではない。ふつう価格が下がれば需要は増えるが、人は損得だけで行動する訳ではなく、この関係が成立しないことは珍しくない。経済現象は、やかんの水をガスコンロで温めるような訳にはいかない。先述の『マンキュー経済学』には経済学の10大原理が提示されているが、いずれの原理も例外が多く、物理学などと比べると原理といえるほどのものではない。

 それでも、経済学は自然科学に近い性格を持つ学問だと言える。しかし法学や政治学は違う。ケルゼンは法学を規範科学と論じたが、規範科学の「科学」は自然科学とは明確に異なる。そこでは、客観的な法則ではなく、人々が従うべき規範が主題となる。尤も、法学にも、法をめぐる人々の行動や考え方に関する実証的な研究もあり、自然科学や経済学と全く異なる学問だとは言えない。社会学は、経済学と法学の中間的な存在であり、自然科学的な面と規範科学的な面の両方がある。また、経済学も、経済現象の客観的な考察に主眼が置かれているとはいえ、規範科学的な面もある。たとえば、経済活動の自由を重視する者と、富の公平な分配を重視する者との論争は、単に事実関係(どちらが経済を豊かにするかなど)に関する論争ではなく、規範に関する論争という性格が強い。事実、経済政策では、両者は倫理的な観点からしばしば全面対立する。

 このように、社会科学と自然科学との同一性と差異性を論じるためには、人間は意思を持ち単純に法則に従う存在ではないことと、社会科学は倫理と密接な関係を持つこと、この二つの特性を吟味する必要がある。

 人間は意思を持ち、単純に法則に従うだけの存在ではないことは間違いない。しかし、ここで、意思とはそもそも何かという問題がある。自然主義的な唯物論者ならば、意思とは脳という物質の活動の所産であり自然科学的な考察が可能であるとみるだろう。ただ、人間の脳の活動に影響を与える事象は無数にある。商品の価格は、それを購入するかどうかを決めるうえで極めて重要であるが、それがすべではない。懐具合、家族の意見、過去の体験や未来の予測、他人の忠告、新聞雑誌やネットでの評判、その時の気分、健康状態、気象状況など様々な要因で、買うかどうかが決まる。現実問題として、それらをすべて考慮することはできない。多くの場合、市場への参加者が多いために、そのような偏差は均等化され、価格と需要の間に単純な規則性が見出される。しかし、たとえば商品の欠陥を伝える報道で消費者の不信感が強まり、値下げしたにもかかわらず需要が増えないなど、単純な規則性が成り立たない場合が少なくない。しかし、これは、社会現象は自然現象と比べてはるかに複雑で、正確な予測が難しいということに過ぎない。しかも、自然科学でも、定性的あるいは統計的な予測しかできない分野が多い。つまり、唯物論的な観点からは経済学も自然科学と変わるところはないということになる。

 しかし、意思とは脳の活動の所産であるという考えは本当に正しいのだろうか。正しくない、または、脳の活動の所産だとしても自然科学的に説明できるものではないという可能性がある。その場合は、社会科学の対象は自然科学の対象とは異質な存在となり、社会科学は自然科学とは異質な学ということになる。この問題については一致した意見はない。哲学者は自然科学的には説明ができないという立場を取る者が多いが、自然科学者やAI研究者などは説明可能とする者が多い。だが、どちらも確固たる根拠はない。自然科学者は、脳は電子回路でシミュレーションできること、人間は原子分子の集合体であることを根拠とすることが多い。しかし、そこでは、心はソフトウェアでありハードウェアの違い−生体高分子と半導体−には依存しないという思想と、全体は部分で決まるという還元主義が暗黙の裡に前提されている。そして還元主義の根拠には物理主義つまりすべては物理法則に従うから、あらゆる存在者とその運動は物理学の基礎法則から原理的には演繹可能という思想がある。だが、心は脳とは切り離せないことから心をソフトウェアとみなす思想は根拠が乏しい。また、物理主義は物理学者の信念に過ぎず、こちらも確固たる根拠はない。むしろ、化学、生物学、生態学、気象学、地質学など様々な対象に対して様々な学が必要であることは、物理主義が正しくないことを示唆している。一方、哲学者の主張も確固たる根拠はなく、ただ科学至上主義的な思想に異議を唱えているに過ぎない。いずれにしろ、意思の本質に関する議論は決着がついていない。

 次に、社会科学が有する倫理性だが、倫理とはそもそも何かという問題がある。人間が倫理を問題とするのは、意思を持つからだと言ってよい。もし、意思がなく、機械的に行動しているのであれば、倫理という場が生まれる可能性はない。機械は感情を有することなく、人を傷つけるし、逆に、助けることもある。機械が何をしても機械を罰することは意味がない。つまり、倫理の問題は最初の問題に繋がっている。倫理の本質を問うことは、意思とはそもそも何かという問題に関わることになる。

 倫理という概念が生まれる根底には、選択肢があること、つまり人には自由意思があるという思想がある。選択肢がないのであれば倫理は問題となりえない。殺人をした者が殺人をするしか選択肢がなかったのであれば罰することはできない。自由意思があり、自らの決断で行為を選択することができて初めて倫理が問題となる。倫理においては、意思とは自由意思だと言ってもよい。

 それゆえ、自然科学と社会科学が異質な学なのか同質な学なのかは、自由意思の存在にかかっている。ここで、自由意思は、手や足のように実在する必要はない。ただ、人びとの思考と行為においてそれが不可欠であるかどうかが問題となる。そして筆者は自由意思が不可欠であると考える。さもないと、人を罰する根拠はないことになる。それゆえ、自由意思は存在し、社会科学は自然科学とは異質な学となる。だが、これは循環論法で無意味ではないだろうか。自由意思があるから罰せられる。罰せられるから自由意思がある。社会科学が自然科学と異質であることから自由意思が導かれ、自由意思の存在から社会科学と自然科学の異質性が導かれる。まさにこれは循環論法だ。だが、まさにそのことにこそ、人と社会の本質があり、社会科学と自然科学の異質性が示されているのではないだろうか。何故なら、循環論法に悩まされるのはもっぱら人間のみで、そのような在り方をする人間の研究を行うのが社会科学だからだ。

(補足)自然科学は通常、因果連関(原因と結果、または初期状態と終期状態の連関)を扱う。そして、この因果連関を表現する自然法則は人間の意思や政治的な決定から独立している。それを人間は変えることができない。一方、社会科学は行為の解釈を行う。なぜ需要が増えたのか?価格が下がったから!などだ。そして、その解釈から未来を予測したり、人々の行動を制御したりしようとする。そのため、社会科学では、人間の意思、政治的な決定、社会構造やその現況が無視できない。むしろ、それらを媒介して対象に働きかける。それ故、社会科学の法則性は人々の意思や政治的な決定で変えることができる。このように、両者では方法論的に決定的な違いがある。だが、この違いが便宜的なものに過ぎないのか、本質的なものなのかが問題となる。そして、本稿での筆者の立場は、それは本質的なものだということになる。


(2021/5/14記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.