☆ 心の哲学 ☆

井出 薫

 心の哲学には様々な課題がある。「心とはそもそも何か」、「心はなぜあるのか」、「心と身体はどのような関係にあるのか」、「他人も心を持っているのか、もしそうならば、どうしてそれが分かるのか」、「人間は原子分子からなるのになぜ痛みを感じるのか」、こういう問題が良く取り上げられる。そして、いずれも決定的な答えはなく議論が続いている。本稿では、これらの問いを主題としては扱わない。ただ、心の哲学がなぜ必要かを考えてみる。

 心という概念は曖昧なところが多い。精神分析のように、無意識や前意識も心に含めることもあれば含めないこともある。「心とはそもそも何か」という問いが重要な課題となるのもそのためだと言える。だが、心とは何かという問題はここでは論じない。ただ、心とは意識していること(志向性)と、意識している何か(外的な対象と記憶など内的な対象、色などクオリアを含む)だとしておく。

 心の研究が難しい理由は、心が主観的な性格を持つからだ。科学は一般的に客観的あるいは(誰にとっても同じという意味の)間主観的な存在を対象とする。それゆえ主観的な問題を科学的な手法で調べることは容易ではない。脳波や脳内の血流量を計測することで脳の活動を調べ、どのような事を感じているか、考えているかを推測することはできる。表情や話し方からその人の感情を推測することもできる。しかし、言うまでもなく脳波や血流量、表情などは心ではない。それゆえ計測結果や表情などを心と結びつけるには、被験者の証言が欠かせない。しかし被験者が計測中に感じていたことや考えていたことを正確に覚えているかどうかは分からない。「さっき、どんな気持ちだった」と聞かれても答えられないことがある。研究者が被験者に質問をすることでバイアスが掛かることもある。嘘発見器は生理的反応と心を結びつけるが、当てにならないことも多い。

 そもそも、これら外部から観察可能な事象と心の特定の状態がなぜそのような結びつきをしているのか、その結びつきは必然的なものなのか偶然的なものなのか、これらの問いに答えることは容易ではない。後者については被験者を多数集めることで、一定の範囲では規則性を見出すことができる。嘘発見器はその典型的な事例だと言えよう。だが、規則性が見出せるのは限られた事象(知っているか知らないか等)であり、ひろく規則性が見出せるわけではない。また、その規則も自然法則のような確実性はない。嘘発見器の結果だけで有罪、無罪が決められたら堪らない。そして、何より難しいのが、外部から観察可能な事象が心の特定の状態と結びついている理由を解明することだ。

 この問題については、科学はそれを所与の事実として認めるしかない。そこに、心の科学ではなく、心の哲学の必要性がある。「人間は原子分子の集まりであるから物理法則に従う。それなのになぜ痛みを感じたり、悲しくなったりするのか?」という問いについても同じことが言える。原子分子という客観的対象から心的事象という主観的な出来事の発生を説明することは、科学にはできない。客観的な対象に関する科学的な理論から導かれるのは客観的な存在に限られるからだ。もし科学が心という主観的な対象を漏れなく説明できるとすると、物理的な事象と心的事象の一元論を想定する必要がある。それは心が物理的な出来事に影響を与えることを意味する。しかし、そのような考えを支持するいかなる証拠もない。また、心がどうやって物理的な事象を生み出すのか全く説明できない。もしそのようなことが可能なのであれば、現代科学を根底から見直す必要がある。そして、その見直し作業の多くは科学ではなく、哲学の仕事となる。なぜなら、それは科学の土台を掘り下げることを必要とし、科学に先立つ知の探究が欠かせないからだ。もっとも、そのような必要性が生じることはありそうもない。

 このように、心の探求の根源は、その本質からして、科学と言うよりも哲学の領域に属する。そこに、心の哲学の必要性が示される。


(2021/5/8記)


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