☆ 世界はデジタルか ☆

井出 薫

 最近、日本では「デジタル化」という言葉がちょっとした流行語になっている。インターネットや携帯が普及してからすでに四半世紀が経つというのに、いまさらという感がないではない。これはデジタル化で日本が大きく後れを取っていることを象徴している。それはさておき、そもそもデジタルとは何だろう。

 「連続的な値を取るのがアナログで、離散的な値を取るのがデジタル」という説明を聞くことがある。では、離散的とは何だろう。コンピュータで使用される0と1からなる集合は連続ではなく、0と1という飛び飛びの値を取るから離散的で、デジタルの典型例と言われることがある。事実、デジタルという言葉が広く用いられるようになったのは様々な情報がコンピュータ処理されるようになってからだと言ってよい。では、0と1からなる集合を離散的と言う根拠は何か。ある者は、0と1の間には0.5など無数の数がある、だから0と1は離散的なのだと言う。しかし、0.5は二進数(0と1で表現される数)で表現することができる。0.5だけではなく、0以上1以下のすべての実数を二進数で表現できる。それゆえ、0と1からなる集合をすべて離散的と言うことは出来ない。では0以上1以下の有理数の集合は離散的だろうか、連続的だろうか。0以上1以下の有理数は無限個ある。そのことを考えると連続であるように思える。しかし、違う。有理数の集合は連続ではない。証明は略するが、全ての有理数の無限集合はすべての自然数と同じ濃度を持ち、数は無限個であっても連続ではなく離散的な存在となる。では0以上1以下のすべての無理数は連続だろうか。すべての無理数の無限集合はすべての実数と同じ濃度(自然数の濃度より大きい)を持ち、測度(長さ、面積、体積など大きさを抽象化した数学の概念)という観点からは連続と捉えることができる。しかし、0以上1以下で、無理数では1、有理数では0という値を取る関数を考えると、それは連続関数ではなく、ルベーグ積分は可能だが微分はできない。つまり関数の意味では、すべての無理数の集合も連続とは言い難い。それゆえ、無理数の集合は離散的でもあるし、連続的でもあると言える。すべての有理数とすべての無理数を合わせた実数が初めて完全な意味での連続となる。すべての実数はもちろん、限られた区間(たとえば0以上1以下など)のすべての実数も連続であり、関数の微分が可能となる。このように、デジタルとアナログの厳密な定義は難しい。むしろ、便宜的に、コンピュータ処理される情報をデジタルと呼んでいるのが実情だと言えよう。コンピュータは急速に高速化し、大容量化しているが、処理速度も、メモリ容量も有限で、処理できる情報量は如何に莫大でも有限に留まる。0以上1以下のすべての有理数の集合は連続ではないが、それでも無限個ある。コンピュータの扱える情報量は有限だから、当然に有理数の数より少ない。それゆえ、コンピュータ処理の対象は必然的に離散的なものでデジタルとなる。

 ところで、世界という存在はアナログなのだろうかデジタルなのだろうか。もし世界が時間的にも空間的にも有限で、かつ離散的であれば、世界はデジタル的な存在と言える。現代の宇宙論では、宇宙は138億年前に誕生したとされる。宇宙が空間的に有限であるか無限であるかは分かっていない。だが、宇宙は距離にほぼ比例して膨張しており、たとえ宇宙が無限の体積を持っていたとしても、地球の事象に影響する領域は有限になる。それゆえ、宇宙は時間的にも空間的にも有限と言ってよい。しかし、たとえ有限でも、空間か時間のいずれかが、実数レベルまで無限分割可能であれば、宇宙は離散的ではなく連続的な存在になる。それゆえ、時間または空間が実数レベルまで無限分割可能かどうかが問題となる。古典物理学の世界では実数レベルまでの無限分割が可能だが、現実の宇宙では、量子効果により、時間と空間を細かく分割していくと、それ以上の分割は意味がないという限界が存在する。だとすると、宇宙はデジタル的な存在と考えることができる。世界という概念と宇宙という概念は必ずしも同一ではないが、人間が宇宙の一部であり、その活動が宇宙の運動の一部であるとするならば、宇宙がデジタルならば、世界もデジタルということになる。

 もちろん、たとえデジタルだとしても、その情報量は余りにも巨大で、人知の及ぶところではない。たとえ人類が数十億年以上生存し、驚異的な速度で科学と技術が進歩したとしても、そのすべてを解き明かすことなど到底不可能だと言わなくてはならない。だが、世界という存在がデジタルで、かつ有限であるならば、原理的には、世界はコンピュータ処理可能な存在だということになる。また、無限でも、離散的な無限であれば、無限の時間を要するが原理的にはコンピュータ処理が可能な存在と考えることができる。

 このように、世界をデジタルでコンピュータ処理可能な存在と捉える見方が存在する。AIが2045年ごろには人間の知能をすべてシミュレーションできるようになり、それ以降はAIが人間を超え、人類の科学と技術はAIの力で飛躍的な速度で進化すると予言する者がいる。そういう者たちは(本人は意識していなくとも)世界はデジタルであり、コンピュータ処理可能な存在だと信じている。だが、一方で、世界はアナログであり、近似的にデジタルであるに過ぎないと考える者もいる。

 世界はデジタルかアナログか?世界はコンピュータ処理可能か?この問いに私たちはどう答えればよいだろうか。いや、そもそも答えられるだろうか。筆者は、この問いに答えることは出来ないと考える。私たちは確かにデジタル的に世界を捉えることで、大きな成果を得ている。それは、現代のコンピュータ社会、近年のAIの社会への急速な浸透が証している。だからと言って、コンピュータで世界を汲み尽くせるとは到底思えない。だが、汲み尽くせないということを証明することはできない。証明とは基本的に数学的・論理的であり、数学と論理は基本的にデジタルだからだ。汲み尽くせないことが証明できるのであれば、汲み尽くせない何かがデジタルの領域に収まることを意味し、矛盾する。それゆえ、この問いには答えることができない。言い換えるとこうなる。人間の知性は世界の中でデジタルな領域のみを認識する。そして、デジタルではない領域、根源的にアナログな領域が存在するかどうかを人間は決めることができない。このことが、人間知性の限界点であり、同時にAIの限界点であるように思われる。


(2021/4/5記)


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