☆ 数学とは何か ☆

井出 薫

 数学はどういう学だろう。なかなか難しい問題で定説はない。

 自然科学の一種という意見がある。物理学は数学を駆使し、ディラックのデルタ関数のように物理学の研究が新しい数学を生み出すことも珍しくない。しかし、ゲームの理論は経済学など社会現象の理解を目的に開発された。数や四則演算は、取引など社会活動の必要性から発明されたと考えられる。それゆえ、数学を自然科学と捉えることは適切ではない。もちろん社会科学と捉えることもできない。

 数学とは数学世界に関する学問だという説がある。小川洋子氏の小説『博士の愛した数式』に登場する、記憶が80分しか持たない天才的数学博士は、目に見えない数学世界を信じている。数学者や哲学者の中には物理世界とは異なる数学世界を信じる者がいる。これは魅力的な考えではあるが、そのような世界が、自然界と独立して存在するとは考え難く、そのような世界の存在を証明することはできない。しかも、そのような考えにどれだけの意義があるのか分からない。

 数学と論理学を同一視する考えがある。ラッセルなど数学を論理学で基礎づけようとする論理主義や、数学を有限の手続きで証明される体系とする形式主義などが、この思潮に属する。しかし、ゲーデルの不完全性定理は、論理主義や形式主義が数学の基礎付けとしては不完全であることを示している。また、多様な数学の領域を論理学的な思考法だけで完全に理解することはできない。数学にはバナッハ・タルスキの定理のように一見したところ非論理的にみえる定理が存在する。解析学や位相幾何学を理解するには論理的な思考だけではなく直観力が欠かせない。また数学が論理学だとしても、論理学とはどういう学かという問題が生じるから最終的な答えにはなっていない。

 数学を道具として捉える見方もある。ウィトゲンシュタインの数学観などは道具説に近い。だが、物理学や生物学も、自然を理解する道具と見ることができるから、数学を道具として捉えるだけでは、数学の特性を理解することにはならない。

 筆者は、数学を技術の一つと捉えることを提唱したい。道具説と同様、物理学を物理現象を理解するための技術と捉えることができるように思えるかもしれない。だが、物理学は道具として存在すると同時に、研究対象の物理現象の正確なモデルとしても存在する。つまり、物理学は単なる道具と道具を操作する知ではない。物理学はモデル・道具と言える。それゆえ物理学を技術として捉えることは妥当ではない。一方、数学は物理学のような対象世界を持たない。それは、様々な学や社会生活で使用される道具と道具の操作に関する知に属する。そのことは数学が技術であることを意味する。(注)
(注)筆者は、技術とはモデル・道具の操作に関わるものと考える。モデル・道具論と技術論の詳細は別の機会に論じる。

 数学を技術と考えることで、科学と技術の関係について新しい見方が可能となる。現代においては、技術を科学の応用と捉える者が多い。だが数学を技術とみると、このような単純な考えは正しくないことが分かる。むしろ、科学には応用技術という側面がある。一般相対論や量子論が首尾一貫した理論として確立したのは、非ユークリッド幾何学やヒルベルト空間論が存在したからに他ならない。新古典派経済学は解析学なしにはありえなかった。ゲームの理論は経済学を大きく発展させた。科学と技術の関係は、科学が基礎で、技術は応用などという単純な関係にあるのではない。それは、数学以外の技術にも当て嵌まる。測量術なしには天文学や地学はなかったし、天文学や地学なしには近代的な物理学もなかった。算術なしには、政治学も経済学もなかった。そもそも政治も経済もなかっただろう。数学は技術の一つであり、科学と技術はどちらが基礎ということはなく、複雑に絡み合ったものと捉えられる。


(2021/3/12記)


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