☆ 個人 ☆

井出 薫

 すべての国民は、個人として尊重される。憲法に、そう明記されている。民主的で人権が認められている社会では、人は個人として尊重され、すべての個人は法の下で平等に扱われる。これは、近代西洋の理念であり、西洋社会以外でも、日本人を含め多くの人々の支持を得ている。しかし、「個人」は自明の存在ではない。

 生物としての個体は実在する。しかし、社会的、法的な意味での「個人」は社会において構成されたものであり、一次的な存在者ではない。社会は個人の集合体ではなく、社会があって初めて成員(個体)は個人となる。各個体は、それ自身で個人なのではなく、法により様々な権利と義務が与えられ、家庭や地域社会、教育機関などにおいて教育訓練され、様々な思想、知識と道徳、社会生活のための技能や体力を身につけ、それぞれ独自の人格を形成し個人となる。ジェンダーとしての男女は、生物学的なオスとメスとは違う。男は生まれながらに男なのではなく、社会の中で男になる。女も同じ。だからメスが男になることができ、オスが女になることもできる。女は男に変わることができるし、男が女に変わることもできる。男が同時に女であってもよい。個人も、社会的に規定されたものという意味で、同じ性格を持つ。成人式があり、成年と未成年で様々な区別があることも、その現れだと言ってよい。

 私たちの思想や信条、知識はすべて周囲から教えられ、学ぶことで身についたものであり、生まれながらに持っているものではない。他の生物種と異なり、人が生得的に有しているのは、言語を習得する能力などごく限られており、その能力のほとんどは後天的に獲得される。個人の人格も後天的に得られるものに属する。

 そこに、個人主義の限界と、個人を過大視することの危険性がある。個人の自由の権利は極めて重要であるが、自由を強調するあまり、「個人」の持つ社会的性格を弁えないと、放恣となり、社会は混乱し、自由の権利そのものが崩壊する。トランプ前大統領に煽られ、陰謀論を信じ、議会に突入した者たちは、自由に考え、自由のために、自由に行動したと信じているだろう。だが、そこには、特定の人物の思想や宣伝に踊らされ、自由だと信じているが、実際はそれと知らず操られているだけの人たちがいるようにしか見えない。そういう人たちが、思想の左右を問わず、暴動を起こし、時には英雄視され、社会を動かすことがある。しかし、それは、大抵の場合、流血の惨事と社会の破壊に終わる。もちろん、権力への抵抗権や革命権は認められるし、それが暴動という形で現れるしかないときもある。だが、それは熟慮と、他者の生命と権利への配慮と尊重の上で遂行される必要がある。

 個人はそれ自身で存在する者ではなく、社会の一員として初めて存在することを忘れてはならない。個人の自由の権利は、他人の自由と幸福、社会の安定なしにはありえない。自由主義(個人主義)と社会主義はしばしば対立する思想とされる。しかし、両者は、個人の法的権利を社会の福祉のためにどこまで制約できるかという量的な差異でしかなく、本質的に対立する思想ではない。むしろ、真の自由主義は社会主義であり、真の社会主義は自由主義であるという補完的な関係にある。新自由主義とか市場原理主義などと呼ばれる思想の最大の欠陥は、この点を軽視していることにあると思われる。


(2021/2/27記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.