☆ 客観性 ☆

井出 薫

 客観あるいは客観性とは何だろう。人間の意志あるいは存在とは無関係に存在する者やその性質を指すと言われる。たとえば太陽は人間が地球上に誕生する以前から存在するから、客観的な存在で、それがもつ性質、質量などは客観的な性質だとされる。ロックは、このような客観的な性質を第一性質と呼び、人間に見える太陽の姿などを第二性質と呼んだ。人間以外の動物(蜜蜂や蝙蝠など)にとっては、視覚に映る太陽の姿は人間のそれとは違うだろう。つまり、それは人間という種の主観的な性質であり、真の意味での客観的な性質ではない。こういう訳だ。

 だが、問題がある。客観的な存在や性質と客観的ではない存在や性質を区別することは必ずしも容易ではない。色は主観的なもの、精々人間で共通の間主観的な性質でしかない。だが色の原因となる電磁波は主観的な存在ではない。黄色い花は蜜蜂には全く違った感覚を与えているだろう。しかし、感覚の原因となる電磁波自身は人間と蜜蜂で変わることはない。色は主観的でも、電磁波は客観的だということになる。だが、電磁波が客観的であるという根拠は何なのか。電磁波も実は人間など地球上の動物にとって共通なものに過ぎず、地球外生命体にとっては色と同じで主観的なものであり、その土台に真の意味での客観的な何かが存在すると考えることはできないであろうか。できないことはない。客観的な存在者や性質と客観的ではないそれとを異論の余地がないほどに明確に区別することは現実的には不可能だ。実際、ロックの第一性質と第二性質という考えは、その後の哲学では支持されていない。ロックの思想が継承されていないからと言って、すべての哲学者が客観的な存在と、主観的な存在などそうでない存在との区別を否定しているわけではない。マルクス主義者や科学的実在論者は、この区別は妥当なものだと信じている。だが、両者を区分する明確な基準は少なくとも現時点では存在しない。

 哲学において何より問題とされるのは、客観的とそうではないものとを区別しているのが人間自身であるということだ。客観とそうではないものという考え自体が人間的なものであることは否定しようもない。それゆえ、間主観を超える客観を擁護するためには、そこから、いかにして、その存在や性質を人間存在や人間の意志とは独立した存在者へと昇華させるかが解決すべき課題となる。具体的に昇華させることができないとしても、それが原理的には可能であることを示す必要がある。さもないと、客観とは間主観の言い換えに過ぎないという反実在論者を論駁することはできない。しかしながら、このような試みは成功しておらず、反実在論者を論駁することはできていない。80年代のポストモダニズムは総じて、反実在論の傾向が強いが、この試みが成功していないことに起因している面が強い。十数年前に、思弁的唯物論としばしば呼ばれる哲学的な立場を提唱したカンタン・メイヤスーは、この問題に正面から取り組んだが(注)、客観性の立証に成功したとは到底言い難い。いや、明らかに失敗している。また、マルクス主義者の陣営でも、たとえば日本の独創的なマルクス主義者、廣松渉などは、間主観性を超えた客観性には否定的であった。
(注)カンタン・メイヤスー著『有限性の後で』(人文書院、2016年)など参照のこと。

 哲学的に考える限り、間主観を超えた客観、人間の存在や意志とは独立な存在を立証することはできないだろう。なぜなら、哲学とは人間の行為そのものだからだ。哲学的な帰結はすべて人間の哲学的な思考と相関している。純粋な思考の世界から思考を超えるものを見出すことはできない。だが、現代人の多くは、自然科学が描き出す世界は、実在しており、それは人間存在や意志とは独立した真実だと信じている。恐竜は確かに6500万年前まで実在し、もし、その時代にワープすることが出来たら、恐竜を目撃し、その生態を記述することができると考える。それが単に私たちの頭が作り出した創造物に過ぎないなどと言われても信じない。もしそうならば、ティラノサウルスとゴジラは全く同じ種類の存在だという馬鹿げた結論になる。だが、哲学的に考える限り、そういう結論を明確に否定することはできない。

 哲学が示していることは、間主観を超える客観の存在を立証することは不可能だということに過ぎない、と言うことは出来る。いかなる立証も、人間がなす立証であり、それを超えるものではない。しかし、科学者たちは、自然との関りにおいて、客観的な存在である自然と対話し、客観を事実上明らかにしている、そして、それが巨大な力を持つ現代技術を生み出している。こう反論することができるように思える。だが、それでも、それは証明ではなく、単に信念に過ぎないと反論されれば、それ以上、より強力な議論を持ち出すことはできない。それゆえ、客観とは単なる間主観ではなく、人間の存在と意志とは独立した存在なのだという信念は、あくまでも信念に留まる。つまり、私たちは、客観を信念として定立するしかない。もちろん、信念であることは間違っていることを少しも意味しない。それはおそらく自然の捉え方として正しい。ただ、ここに居心地の悪さを感じないわけにはいかない。


(2021/2/20記)


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