☆ 法に従うとは ☆

井出 薫

 「法の支配」、「法の精神」など「法」という言葉は広く使われる。だが、「法とは何か」と問われると、答えることが難しい。法実務的には、最高法規である憲法、憲法に従い立法機関で制定される法律、法律に委任されて制定される政省令などの法体系全体を法と呼ぶ。一方、法哲学の主題である「法」は、抽象的な理念型としての法を意味する。しかし、本稿では法の意味を論じることはしない。ここでは、「法に従う」とはどういうことかを議論する。そして、それを通じて、法の性格を明らかにする。

 「法に従う」ことの意味は自明に思える。だが本当にそうだろうか。赤信号で横断歩道を渡っている男をみたら、私たちは法に従っていないと注意する。しかし、彼は従っていると主張する。話しを聞くと、彼は、私たちの赤が青であり、青が赤であると思っていたことが分かる。彼が外国人で日本語をよく知らないのであれば、事実そういうことはありえる。さて、彼は法に従っていたのだろうか、それとも従っていなかったのだろうか。

 もちろん、「従っていた」とは言えない。では、「従っていなかった」と言えるだろうか。彼は法に従って行動していると信じていた。「従っていると信じること」と「従っていること」は違う。だが、悪意がないのだから、従っていなかったとは言い難い。言葉を誤解していたというのが妥当かもしれない。だが、そもそも、「従っていたとは言えない」とはなぜ言えるのだろうか。「赤」は赤色を意味し、青色を意味しないと、どこか法律にそのような規定があるのだろうか。そのような規定はない(と思う)。たとえ、あったとしても、それで「赤」が赤色を意味し、青色を意味しないということは確定しない(注)。だとすると、「彼は法に従っていたとは言えない」とは言えないことになるのではないだろうか。そうではない。私たち日本人の大多数が「赤」は赤色を意味すると判断して行動するように訓練され、そういう風に振舞うという確固たる事実がある。だから、「彼は法に従っていたとは言えない」と言える。つまり、法に従うということは、共同体において広く認知されている振る舞いを習得し実践するということを意味する。
(注)(法を含む)規則の解釈を一意的に確定することはできない。それについては、ウィトゲンシュタインの『哲学探求』やクリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』などを参照してもらいたい。

 生まれて初めて横断歩道の前に来た子どもがいる。その子は、傍らで大人が信号機に目をやり横断していったのを目にする。しかし、その時信号は赤で、大人は車がこないので、赤であるにもかかわらず横断したのだった。このとき、その子は、赤信号が横断可能の合図だと思い込み、それ以降、赤で渡るようになることがありえる。この例でも、先の事例と同じように、子どもは共同体で認知されている振る舞いを習得できていない。そのため、その子は法に従っているとは言えない。だから、法に従うように、その子を訓練して行動を変えてやる必要がある。

 このように、法に従うということは、訓練により共同体内で認知された振る舞いを身につけ、それを実践することを意味する。そこでは、訓練と実践が核心であり、法は、共同体の成員に共通の行動を取らせるための指針だと言えよう。つまり、法は道具に過ぎず、法そのものに人を従わせる力があるわけではない。ただ、膨大な数の法からなる法体系と法運用が整備された国家では、あたかも、法自身が独立した力を持つかのごとく現れる。それが自然法思想やヘーゲルの法哲学の土台をなし、法哲学者や法実務家たちが、しばしば法の条文解釈でスコラ哲学的な空疎な議論を展開する理由の一つになっている。それらは法に従うことに関する錯誤に基づいている。法はそれだけでは空疎な存在でしかない。


(2021/1/9記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.