☆ 何を理解しているのか ☆

井出 薫

 言葉を理解しているとき、人は何を理解しているのか。筆跡は人により異なる。同じ文章でも私が書いた字とあなたが書いた字は違う。だが、誰でも同じ文章は同じだと分かる。コンピュータのディスプレイに表示されていようと、紙に印刷されていようと、同じことを伝えることができ、受け取った者は同じことを理解する。人は言葉を伝えるとき、受け取るとき、何を理解しているのか。

 それが「意味」だとされる。では、表現媒体や感覚的な要素を超えた「意味」とは何か。ウィトゲンシュタインは意味の使用説を唱えたと言われることがある。だが、ウィトゲンシュタインは、意味の使用説を唱えたわけではない。意味を知りたければ、言葉の使用を知る必要があると指摘しているだけだ。むしろ、ウィトゲンシュタインは、神秘的な「意味」なるものはないと警告しているように思われる。人は様々な媒体で表現され、様々な感覚的要素で構成される言葉に対して同じ振る舞いをする。一見、そこに共通する何かがあると考えたくなるが、そのようなものはなく、ただ同じ振る舞いがあるだけではないだろうか。ウィトゲンシュタインはそれを示唆している。(注)
(注)ただし、「同じ振る舞い」とは、後述のとおり、共同体的な合意を前提とする。

 それでは、人は何を理解しているのか。何か特別な者、神秘的な存在者などを理解しているのではない。同じように振舞うという事実があるに過ぎない。つまり、「理解する」ということ自体が、振る舞いの表現と考えられる。理解は決して内的な過程などではない。脳内を覗いても、理解の過程など見つからない。「意味」も、「理解」も、共同体的な概念であり、脳内過程や、言葉に対応する超越的・普遍的な存在者などではない。「分かった!」と思うことと、分かった(理解した)こととは違う。授業中、解答が分かったと思って「分かりました」と手を挙げたが、答えが間違っていることはよくある。理解したと思うことと理解は違う。理解には共同体の合意が必要となる。これがウィトゲンシュタインの教えだ。「理解」、「意味」とは共同体において意義があるのであり、単独の何か、共同体を超えた超越的な存在ではない。人は言葉を理解すると言われるとき、「ある言葉を理解している」と共同体から認知されるという事実があるに過ぎない。(注)
(注)AIは人間と同じように自然言語を理解できるかという問いも、同じ観点から論じる必要がある。意味は計算(=チューリングマシンで処理できる)に還元できないから、AIは人間並みの自然言語理解はできないという意見がある。斯く言う筆者もしばしば「意味が計算に還元できるかどうかが問題だ」と論じてきた。だが、意味が計算に還元できるかどうかは、AIを人と同じような共同体的な環境に置くことができ、そこで、人と同様な振る舞いができるようになるか、という観点から議論しなくてはならない。人間の脳内過程との対比や、超越論的な次元での意味や理解の議論では、問題の解決には繋がらない。なお、私見だが、共同体的な観点からすると、AIが人間と同等の存在になることはないと思われる。AIは機械であり、生命ある人の共同体において生きる存在ではないからだ。


(2020/12/5記)


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