☆ 過去は存在するか ☆

井出 薫

 瓶に1リットル、50度の水が入っている。500ミリリットル入りの瓶2本の水を混ぜた結果だという。では、混ぜる前の2本の瓶のそれぞれの水温は何度だろうか。80度と20度、100度と0度、60度と40度など、様々な可能性がある。50度の水を調べることで、決めることができるだろうか。できない。混ぜるときに二つの瓶の水温を測って記録しておかない限り、知ることはできない。また、測っても、測った者が忘れてしまえば、知る由はない。熱力学の第二法則が知ることができないことを示している。

 量子状態は重ね合わせで表現される。電子のスピンの方向は上向きと下向きがあるが、どちらかに決まっているのではなく、二つの状態の重ね合わせで表現される。重ね合わせの重みは状態により異なる。上向きの重みが2分の1(係数はルート2分の1になる)、下向きの重みが2分の1の場合もあれば、上向きが4分の1、下向きが4分の3の場合もある。どちらか一方で他方はゼロであることもある。量子状態を観測すると、上向きか下向きかに決まる。そこで観測した結果、上向きであることが分かったとする。では、観測する前の量子状態はどのようだったのか。2分の1と2分の1.4分の1と4分の3、・・?先の水温の例と同様、上向きスピンの電子を調べても分からない。観測する前の電子の記録が残っていなければ、知る由はない。量子論が知ることができないことを示している。

 このように、過去を知ることには、技術的にだけではなく、原理的に限界がある。その割には、6500万年前に巨大な隕石が地球に衝突して恐竜が絶滅したなどということが良く分かるな、と思う者がいるかもしれない。だが、宇宙の誕生、地球の誕生、恐竜の絶滅など大規模な出来事の大まかな状況は分かる。しかし、ティラノザウルスが隕石衝突時に何頭いて、それぞれがどのようなプロセスを経て死んでいったかを知ることは出来ない。地球上に生命が誕生したのは、40億年くらい前ではないかと推測されているが、正確な日にちまで知ることは絶対にできない。

 だが、過去を知ることに原理的な限界があるとすると、そもそも過去が本当に存在したのかという疑問が生じる。過去とは、単に現在の状況を時間軸上でマイナス方向に投影した現在の像でしかないのではないだろうか。

 もちろん、疑うことができることと、存在しないこととは等価ではない。常識は、過去が紛れもなく実在していることを示している。もし、過去が存在しないのならば、宇宙が138億年前に誕生したとか、46億年前に地球が誕生したとか、関ケ原の合戦で東軍が勝利したなどの言明はすべて無意味になる。ただ、そのような像を作ることができるだけで、それは存在しなかった、つまりすべては夢想に過ぎないということになる。だが、このような考えは馬鹿げている。

 では、どうすれば、過去が実在することを証明することができるだろうか。デカルトは、「考えている私」の存在は確実だとして、その私にとって明晰判明なることは真実だとした。デカルトは過去の存在を問題とはしていないが、過去の存在も確実なことに属するだろう。だが、デカルトの考えは、厳密ではない。明晰判明なる者は何かについての議論は曖昧で、それゆえ過去の存在についても、確固たる証明ができるわけではない。

 それゆえ、過去の存在は、私たちが信じているに過ぎないと言うしかない。もちろん、それは過去が存在しないことを証するものではない。ただ過去の存在を証明することができないということを意味しているに過ぎない。私たちの常識は過去の存在を確信している。過去の不在という思想は私たちのコミュニケーションと日常生活を破壊する。それは、犯罪者を罰したり、貸した金や物の返還を求めたりすることを不可能にする。過去は存在することにしておかないと拙い。だが、過去の存在という絶対確実に思えることが、その根拠を欠く、便宜的なことに過ぎないということには、何か不気味な感じが残る。


(2020/11/21記)


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