井出 薫
哲学は他の学とは明確に違う点がある。それは言葉の定義を明確にしないままに議論をすることだ。 物理学では距離、時刻、速度、加速度、重量などは明確に定義され、それを出発点として理論の構築や実験・観察、データ解析等が進められる。力や質量は、最初は曖昧さが残るが理論全体の中で明確な定義が与えられる。生物学では、種とは何かを明確に定義して研究を進める。化学、天文学などでもこの点は変わらない。ただし、研究の進展により、言葉の定義を変える必要が生じることはある。古典力学に基づき定義された質量という言葉の意味は、相対性理論の登場で、修正がなされた。社会科学でも、通貨、価格、需要と供給、国内総生産、労働時間、賃金、親族、憲法などは明確に定義された言葉であり、そこから議論を展開する。 一方、哲学は異なる。たとえば「存在とは何か」という哲学的な問題を考えてみよう。物理学や経済学に倣うのであれば、「存在」を明確に定義して議論することになる。だが、そうなると、すでに、存在について説明ができたことになり、「とは何か」という問いは直接的な意味を失い、「存在はどのような性格を持つのか」という問いに還元される。さらに、「どのような性格を持つのか」という問いは、抽象的な「存在」ではなく、何者かについて語ることで初めて意味を持つ。それゆえ「存在とは何か」は、「存在者とはどのような性格を持つのか」あるいは「存在者とは何か」という問いへと変容する。ハイデガーは、「存在とは何か」という問いが、プラトン以来の西洋形而上学では、「存在者とは何か」という問いにすり替わってきたと考える。そして、ハイデガーは「存在とは何か」と「存在者とは何か」を峻別し、前者こそが哲学の第一問題であると論じる。つまり、「存在とは何か」とは、無定義の「存在」を問うことでなくてはならない。ところが、哲学者たちは、暗黙の裡に、存在そのものではなく、定義された「存在」つまり「存在者」を問うてきたとハイデガーは診断する。 このハイデガーの考え方こそが、哲学の性格を露にしている。ハイデガー以外の哲学者たちも、たとえ存在への問いを存在者への問いへとすり替えていたとしても、無前提かつ根源的に思考することを求めた。そして、無前提に問うためには、言葉を定義することはできない。言葉を定義するためには、定義に使う言葉の中に自明な概念−その表現としての言葉が存在することを前提にしなくてはならない。だが、それでは無前提に思考することにはならない。しかし、哲学がいかに無前提に思考しようとしても、言葉の存在を前提にしないわけにはいかない。言葉を使わずに哲学することはできないからだ。それゆえ、言葉は定義することなしに使うしかない。そして、言葉を使って思考を展開する中で、初めて、その最初の言葉、たとえば「存在」の意味が明るみにでる。ただし、その場合でも、「存在」が明確に定義できるようになるわけではない。 この哲学の特異な性格から、哲学は曖昧、一貫した論理を欠く、意味不明などという批判が生じてくる。だが、それは哲学の性格上やむを得ない。むしろ、そのような学に意義があるのかということが問題になる。これに対しては、意見が分かれる。前世紀の前半、論理実証主義者は、伝統的な哲学はほとんど無意味だと主張した。論理実証主義に大きな影響を与えた若き日のウィトゲンシュタインも同じように考えていた。だが、私たちが生きていく中で、言葉に明確な定義が与えられている例は少ない。漠然と、言葉を使っているに過ぎない。「日本の政治は間違った道を進んでいる」などと言う者がいる。しかし、「政治とは何か」と問われると上手く答えられない。(斯く言う筆者も同じ。)つまり、私たちは多くの場面で、言葉の明確な定義を知らずに、言葉を使用し、議論し、是非の判断をする。ある意味で、私たちは常に生活の中で、哲学的思考法を採用し、それに基づく行動をしている。だからと言って、ただちに哲学が有意義、重要だということにはならない。専門的な哲学に関する知識なしでも、問題なく生活している。だが、哲学は明確な定義を欠くがゆえに曖昧で無意味に見えても、論証性や合理性を全く欠くことはない。ヘーゲルやハイデガー、ニーチェのような哲学者でも、その思想は、自由奔放な文学とは異なり、一定の論証性や合理性を保持している。そうでなければ、単なる駄弁になる。従って、私たちは、哲学を学ぶことで、また自ら哲学的な問題を設定し思考することで、自らの日々の思考や行動を反省し改善することができる。私たちは哲学なしでも遣っていけるが、定義なしで無前提に思考しようとする哲学を学ぶことは決して無意味ではない。 了
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