☆ 量子論 ☆

井出 薫

 量子論は、現代物理学の揺るぎない土台であり、最も精確であらゆる物理現象を説明する理論だと認められている。しかし、アインシュタイン、シュレディンガーなど20世紀を代表する物理学者の何人かは、量子論は不完全な理論だと考えていた。

 有名なシュレディンガーの猫という思考実験がある。猫が入れられた箱には、放射性物質、ガイガーカウンターとそれと結合した毒ガスの瓶が備え付けられている。放射性物質がα崩壊するとガイガーカンターがα線を検出して、それがトリガとなり毒ガスが箱の中に充満し猫は死亡する。

 1時間以内に放射性物質が崩壊するかどうかは量子論で計算される。古典物理学の世界では、崩壊するかしないかが一意的に決まる。しかし、量子論の世界では統計的にしか決まらない。たとえば、1時間以内に崩壊する確率は2分の1、崩壊しない確率が2分の1という具合になる。最近話題になっている量子コンピュータは、量子状態がこのような重ね合わせの状態として表現されることが基礎になっている。

 すると、1時間後の猫の状態はどうなっているだろうか。猫の状態が量子状態だとすると、猫は、死んでいる状態と生きている状態の重ね合わせの状態にあるということになる。だが、これは明らかに不合理で、当然、猫は死んでいるか、生きているかのいずれかになる。実際、箱の中を覗いてみれば、死んでいる猫(毒ガスにより死に掛けている猫を含む)か、生きている猫しかみることができない。これはパラドックスではないだろうか。それゆえ、シュレディンガーは、量子論は不完全だと考えた。しかし、量子コンピュータで明らかなとおり、量子論は現実的に有効であり、その正しさは揺るぎない。

 もし、同じ箱を10万個用意したとすると、1時間後には、そのうち5万個の箱では猫は死んでおり、5万個では猫は生きている。量子論はこういう統計的な予測をするのであり、個々の箱の状態は確率的にしか予測できない。しかし、こういう解釈をしても問題が残る。それぞれの箱の猫は生きているか、死んでいるかで、量子論的な重ね合わせの状態にあるのではない。実際、1時間後に猫の生死を観測することで、状態は重ね合わせの状態から混合状態(猫が死んでいることが確定した状態と生きていることが確定した状態の和からなる状態)に瞬時で移行する(詳細は量子論の教科書に譲る)。そして、現時点では、この移行(「波束の収束」と呼ばれる)を明確に説明する理論はない。その意味では、確かに、アインシュタインやシュレディンガーが主張したように量子論は不完全だと言えなくはない。この問題を解決するために、多世界解釈という理論が提唱されている。この理論では、観測が行われるたびに世界は分裂する、つまり、シュレディンガーの猫が死んでいる世界と、生きている世界とに分裂するとされる。この理論を支持する者も少なくない。だが、理論の正しさを検証することはできない。猫が死んでいる世界と、猫が生きている世界は決して交わることがないからだ。私たちが猫が死んでいる世界に存在するのであれば、猫が生きている世界を観測することはできない。それゆえ、これは魅力ある理論ではあるが、考えようによってはトンデモ理論だとも言える。

 このような原理的な問題が残っているにも拘らず、量子論はあらゆる自然現象が従う基礎原理であり、量子論と整合しない理論は精々近似的にしか正しくないと信じられている。実際、量子論と矛盾する観測がなされたことはない。あらゆる観測や実験データは量子論の正しさを示している。だが、その普遍性と精確性から、人間の知の最高峰にあると言っても過言でない量子論は、その基礎において極めて不可解な面を有する。人間の知には常に不確実性があることを忘れたり軽視したりしないように、このことを覚えておくことは大切だと思われる。

(補足)
 筆者はこの問題は疑似問題ではないかと考えている。ここで論じた問題は、量子論を自然界に内在する普遍的な原理だと考えることから生じる。いかに普遍的で客観的でも、人間が作り出す理論は、自然界のモデル・道具であり、自然そのものではない。量子論は自然に内在しているわけではなく、自然を理解するために人間が用いるモデル・道具と考える必要がある。そう考えれば、量子論は、あらゆる現象を説明し、それを応用するうえで、極めて優れたモデル・道具であり、そこに何も問題はないことになる。量子論に限らず、あらゆる自然科学の理論は、自然を対象とするモデル・道具であり、自然に内在する原理あるいは自然の設計図ではない。ただ、それで量子論への疑問がすべて解消するかどうかは定かではない。詳細は別の機会に論じたい。


(2020/9/26記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.