井出 薫
親指をドアに挟む。指が痛い。なぜ指が痛いのか。当たり前のようだが、考えてみると不思議だ。指の感覚ニューロンが脳に信号を送り脳が指が挟まれたことを知覚する。では指ではなく脳が痛みを感じるはずではないだろうか。もちろん、「馬鹿らしい、指が挟まれて頭が痛いようでは話しにならない」と言われよう。確かにそのとおりなのだが、感覚ニューロンの情報信号を処理し、挟んだ指を守るためにドアを開けるように筋肉に指示を出すのは脳神経系で、痛みは確かに脳で処理されている。 では、なぜ痛みを指に感じるのか、どういうメカニズムで指に痛みを感じさせることができるのか。脳科学は日々進歩しているが、今のところ、答えはない。この問題は心とは何か、心はなぜあるのか、という伝統的に哲学で考察されてきた問題と密接な関係がある。そこで、この種の問題も哲学でよく議論されるが、代表的な理論が二つある。脳が指に痛みを投射するという投射説、脳の中に身体のイメージがあり、そのイメージの指の箇所に痛みを感じるとする内在説、この二つだ。しかし、いずれの説も疑わしい。投射説は一体どうやって投射するのか分からない。感覚ニューロンは末梢神経から脳神経系へと信号を送る。逆はない。運動ニューロンは筋肉に収縮または弛緩を指示する信号を出すが、感覚を投射するような性質のものではない。一方、内在説も疑わしい。一体、脳のどこにイメージがあるのか。そして、そのイメージを見ている者は誰か。まさに脳の中の幽霊という皮肉が成り立つ。筆者の世代には懐かしい異端のマルクス主義者、廣松渉は、この難問は認識主体と客体と両者を媒介する意識という三項図式に基づき生じるものであると論じる。そして、フッサールの現象学を下敷きとして、三項図式を解体し、痛みの感覚を原初的なものとすることで問題の解決を図った。しかし、廣松の議論は、感覚を原初的なものと位置付けることで、問題を回避しているに過ぎず、問題の解決にはなっていない。 つまり、現時点では、脳科学でも、哲学でも感覚の問題−感覚の帰属の問題は解決できていない。感覚とは、人間にとって最も当たり前の存在であるが、最も不可思議な存在でもある。このような問題を探求することにいかなる意義があるのかと疑問に思う者がいるかもしれない。しかし、この問題は実用的にも、理論的にも無視できない。指に痛みを感じ様々な検査をするが異常は見当たらない。だが痛みは続く。それが抗うつ薬の服用で痛みが消えるなどということがある。指の痛みが、指の怪我や病気ではなく、精神的なストレスや疾患で生じる、つまり脳の働きの乱れに起因して指の痛みなどの感覚が生じることがある。また、人間に限りなく近いロボットを作ろうとしたら、感覚の問題は無視できない。このように、感覚の問題の探求は、科学的にも、技術的にも、哲学的にも大きな意義を持つ。ただし、それを、どのように探求すればよいのかは、まだ分かっていない。 了
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