☆ 人の有限性と倫理について ☆

井出 薫

 哲学や倫理学でよく取り上げられる問題がある。それはトロッコ問題と呼ばれる。「トロッコ(路面電車)が制御不能となり、このままでは線路上の作業員5人が轢き殺される。私が分岐器を操作しトロッコを別の線路に導けば5人は助かる。しかし別の線路では1人の作業員が作業をしており、進路を変えるとその者が死ぬ。私は分岐器を操作すべきか。」功利主義的な観点からは、5人を助けるために1人を犠牲にすることは、善いこととは言えないまでも、やむを得ないと言える。一方、カント的な義務倫理の観点からすれば、5人が轢き殺されることは事故でありやむを得ないが、分岐器を操作し1人を死に追いやることは殺人であり容認されない。

 ここで、功利主義が正しいか、カント的義務倫理が正しいかを決めることは出来ない。トロッコ問題の変形版としてこういう問題がある。「トロッコが制御不能となり、そのままでは5人の作業員が死ぬ。鉄橋の上にいた男を突き落とせばトロッコは止まり、5人は助かる。突き落とすべきか。」この問題の論理構造は先の問題と等しい。だが、先の問題で分岐器の操作を容認する者たちでも、男を突き落とすことを容認する者は少ない。何の罪もない男を突き落とすことは明白に殺人であり、事故で5人が死ぬこととは次元が違うと多くの者が感じるからだ。別の問題を考えてみよう。Aが何の罪もないBを逆恨みし殺害を目論む。Aは5人の人質をとって家屋に立て籠もり、Bを引き渡さなければ人質全員を殺すと脅す。警察はBをAに引き渡すべきだろうか。引き渡すべきではないと誰もが考える。たとえBが自らAのところに行くと申し出ても、警察がBの命を絶対に守ることができる場合を除けば、いかせるべきではない。たとえ、その結果、5人が殺害されたとしても、悪いのはAであり、警察ではない。これが多くの者たちの常識だろう。ただし、人質が全員Bの家族であり、人質を助けることが難しいなどという場合は、微妙になる。

 このように、倫理の諸問題を一つの原理で解決することはできない。哲学や倫理学は答えを与えるものではなく、問題を提起し議論を喚起することにその役割と価値がある。だが、既存の哲学や倫理学には大きな欠陥がある。それは人間の有限性を十分に考慮していないことだ。トロッコ問題をもう一度考えてみよう。5人を助けるためには1人を犠牲にしないといけないという設定だった。だが、人間は未来を完璧に予測することなどできない。1人を犠牲することなく5人を助ける方法はないのか?放置したら5人は確実に死ぬのか?現実世界では、誰もこのような疑問に確実な解答を与えることはできない。トロッコ問題では5人の作業員はトロッコが遣ってくることに気が付かず、全員が死ぬ、分岐器を操作すると別の一人が死ぬ、などと前提されている。だが現実には5人の作業員の誰かがトロッコが遣ってくることに気が付き一人あるいは複数人または全員が難を逃れる可能性がある。気が付かずとも全員が死ぬとは限らない。また、分岐器を操作しトロッコの進路を変えるのではなく、作業員に危機が迫っていることを知らせる方法があるかもしれない。分岐器が動作しない可能性もある。また、5人にトロッコが迫っていることを知らせることは出来なくとも、別線路に切り替え、そこで作業している作業員には切り替えたことを知らせることができるかもしれない(そうであれば、躊躇なくトロッコの進路を変えることができる)。つまり、現実には様々な可能性があるにもかかわらず、この問題では、二つの可能性しかなく、しかも二つの可能性しかないことを(分岐器を操作する)私は知っていると仮定されている。要するに、この問題では、私は、未来を予測することに関しては全能である一方で、実際の行動という面では極めて乏しい存在(分岐器を操作することしかできない存在)ということが仮定されている。これは矛盾ではないだろうか。私がスーパーマンやウルトラマンであれば、誰も傷つけずに作業員5人を難なく助けることができる。未来を完璧に予測できるほどの存在であれば、スーパーマンやウルトラマンのように振舞えると考えるべきではないだろうか。

 私たちが倫理の問題に悩まされるのは、人間は有限で、正確に未来を予測することができず、かつ、その行動においてはできることが甚だしく限られているからだ。全知全能の存在者ならば、未来を正確に予測し、全ての不幸を取り除くことができる。だが、人間はそうではない。銃を持った強盗が人質をとって銀行に立て籠っている。警察は人質を解放し投降するように説得するが応じない。説得を続けるか、射殺するか。未来が完全に予測でき、あらゆることができれば苦労しない。そもそも銀行強盗などという者が存在しないだろう。だが、人間は有限で、予測も行動も完全にはほど遠い。説得できないと判断して、射殺を試みたところ失敗し、逆上した強盗が多数の人質と突入した警察官を殺害するという最悪の事態になることがありえる。逆に、射殺の決断が出来ずに多数の人質が殺害されたうえ逃亡を許し逃亡先でも人を殺すというやはり最悪の事態を招くこともありえる。

 こういう人間の有限性、人間存在の本質を十分に考慮して初めて、真に倫理の問題を語ることができる。功利主義も、義務倫理も、トロッコ問題という思考実験も、それぞれ意義があることは認めるが、全知全能の超越者的な視点で議論がなされており、有限性という人間存在の本質に十分な配慮がなされていない。人間は、多くの知識を持ち、道徳的に行為し、皆で決めた規則を守り、他人に対する思い遣りをもつ。一方で、しばしば、判断を誤り、不合理な思考や行動をとり、私利私欲に走る。未来を見通すことも、できることも限られている。人間はこういう存在であることを前提に倫理を展開することが欠かせない。功利主義や義務倫理、あるいは徳倫理などを参照しながらも、それとは別な有限者の倫理学の確立が必要なのだと考える。


(2020/8/8記)


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