井出 薫
自由とは何かというと意外に難しい。普通に考えると、自分がやりたいこと−ただし悪いことを除く−ができ、同時に良識ある市民としての義務−民主的に定められた法令による義務、職業倫理上の義務、公序良俗、善管注意義務など−を除いて、やりたくないことを拒否できること、できるような環境、できる社会を意味するということになる。お酒を飲みたいとき、(節度を守るという条件で)いつでも気軽に飲むことができる、ギャンブルをしたいときに競馬場で馬券を買い観戦することができる、選挙で誰の目も気にすることなく自分が支持する候補に投票する、親が勧めるお見合いを断る、時間外労働を拒否する、こういうことができること、できる社会を自由という。これが常識的な考えだろう。 しかし、カントならば、このようなことは、特に最初の二つの例は真の意味での自由ではないと言うだろう。カントにとって自由とは、理性に従い正義を行うことを意味する。その著「永久平和のために」では、「正義はなされよ、たとえそれで世界が滅びようとも」という格言を引用して正義の重要性を語っている。正義をなすことこそ、それも結果を恐れることなく正義をなすことこそ自由の真の意味であり、逆に言えば、正義をなすことを意味するがゆえに自由は尊く、何よりも大切とされる。酒が飲みたいときに飲む、ギャンブルしたいときに競馬場に行くことは、真の意味での自由ではない。むしろ度が過ぎる場合は欲望の奴隷になっていることを意味している。酒が飲みたくとも、明日は大切な仕事があるから、今日は飲まないでおく、という判断をなし、それを実行することが自由なのだ。我慢できずに酒を飲み、仕事をしくじる者は愚か者で、まさに欲望の奴隷に成り下がっている。欲望に支配されることなく、理性の命じるところに従い結果を恐れることなく正義をなすことこそが自由であり、自由の権利が擁護される社会とは、このような理性的な人間−カントによれば、きちんと啓蒙すれば、すべての人間が理性的な人間になる−が正義をなすことを妨げない社会を意味する。自分を取り立ててくれた恩義ある上司でも、不正を見つけたら、結果を恐れることなく、それは不正行為だと指摘することが正義であり、指摘することで左遷されることを恐れたり、上司が窮地に陥ることを気の毒に思ったりして口を噤むことは正義に反し、欲や情に支配され自由を放棄したことになる。 カントの考え方は立派で、確かに、それこそが自由なのだと評価することができる。だが、問題もある。まず、何が正義なのか分からないことは多い。カントは、理性的な存在者ならばなすべきことは分かると語るが、現実を考えるとそうはいかない。あと数日の命と宣言されている女性Aが病院のベッドで、海外に出張している恋人Bと再会できる日を待ち望んでいる。そこに、「事故でBは死んだ」という知らせが入る。正直に事実を伝えるべきだろうか。「Bと再会できる日のために元気になろう」と嘘を吐くことは悪いことだろうか。消防士が火事の現場で二人の子どもが取り残されていることを知る。二人とも助けることは出来ず、どちらか一方しか助けることができない。一人は自分の子で、もう一人は他人の子。消防士は自分の子を助け、もう一人の子を結果的に見捨てることになった。消防士は間違ったことをしたのだろうか。筆者はそうは思わないが、消防士の使命として他人の子どもを優先すべきだったと考える者もいるだろう。このほかにも、様々な場面で、何が正しい選択なのかは分からないことが多い。選挙でだれに投票するのがよいのか、事前には誰にも分からない。あとから結果論的に評価するしかない。結果を恐れず正義をなせなどと言われても、正義であるかどうかが、結果を見ないと分からないことは多い。カントの「自由=正義」論には、この点で難点がある。さらに、これと関連して、カント的な思想は、下手をすれば独裁的な社会を正当化することに繋がる。自分たちの思想と行動こそが絶対的な正義であると確信する狂信的な集団が権力を握ったとき、自分たちの考えに反対する者はすべて愚かであるか、悪人であるとして、正義を実現するためと称して反対派をすべからず洗脳するか弾圧することが想定されうる。そして、それをなすことが正義に適い、自由であるとする論理がカントの正義と自由に関する哲学から正当化される危険性がある。もちろん、カントならば、そのような考えは理性的な存在者ならば決して正しいものとは認めないと言うだろう。だが、何が正義かは分からないことが多いことからカントの反論だけでは不十分だ。カントの自由=正義論では、暗黙の裡に確定した正義−自然法的なそれ−が存在していることが想定されているが、自然法があるとしてもそれを知ることができないという現実との間に齟齬がある。そもそも、自然法なるものが在るのか疑わしい。それゆえ、カントの自由論には、真逆の結果を生みかねない危うさがある。(注) (注)ルソーの一般意志にも同じ危うさがある。権力を掌握した者が、自らの意志が一般意志であるとして、反対派を弾圧することは想定しうる。事実、ロベスピエールの恐怖政治や、20世紀の共産主義国の独裁政治にはこういう傾向が存在した。 さらに、もう一つ大きな問題がある。ギャンブルがしたいから競馬場に行くという行為は、確かに崇高な行為とは言えないかもしれない。しかし、現実の人間社会を考える時には、けっして重要ではないとは言えない。人間は多くの場合、理性よりも体験や欲望に従い行動する。もちろん、ほとんどの人間は理性によりみずからの行動を点検し抑制する。魅力的な女性がいるからといって付け回したりはしない。とは言え、不道徳な行為や他人の権利を侵害する行為でない限り、個人の欲望とそれに基づく行為の自由は可能な限り認められるべきだ。そして、それが認められない社会は自由とは言えない。風俗営業などは、カントが思い描くような理性的な人間の視点からは低級なものに映り、そのような営業の自由など認める必要はないということになりかねない。しかし、世界を見渡しても、風俗営業あるいはそれに類するものが存在しない社会などはおそらくほとんどないだろう。そして、それを人間の未熟さ、啓蒙されていないことだと決めつけることはできない。風俗はしばしば芸術や文化の源泉となってきた。おそらくそれは人間社会にとって永遠に必要なものだと思われる。下水道があってこそ上水道がある。低俗とされるものがあるからこそ、高尚とされるものがある。下水と上水、低俗と高尚は切っても切れない。理性と欲望も同じ関係にある。欲望が理性を制御し、同時に理性が欲望を制御する。この制御が適切なものとなって初めて、正義と自由がある(注)。つまり、カントの自由は、人間の欲望の重要性を正しく理解していない。カントは、美を無関心に見ても良いと感じることだとした。これに対して、ニーチェは「カントは女の裸も無関心で見られるらしい」と嘲っている。ニーチェの批判は一面的でカントの美学の意義−美とはそこに予め在るものではなく、判断力を通じて定立するものであるとする美学思想−を正当に評価していない。しかし、欲望の意義を軽視するカントの弱点を突いている。 (注)このことを理解していた点で、ヘーゲルはカントに優る。ただし、すべてを同一化し、それを形而上学的な存在(ロゴス=ガイスト(精神))へと昇華させた点で、ヘーゲルはカントが指摘したとおり悪しき形而上学に後退したと言わなくてはならない。 カントの自由論は、このようにいくつかの難点がある。しかし、現代人がしばしば富と安全ばかりに執着し、正義をなすこととしての自由を蔑ろにしがちなことを考えるとカントの自由論は大いに意義がある。特に、新型コロナに翻弄される今、人々の関心は富と安全に集中しており、他のことはそっちのけになっている。香港の自治がいま危機に晒されているが、人々の関心は薄い。いまの日本は、コロナ退治と、コロナで失われた富の回復ばかりに目を奪われ、自由や民主の重要性を忘れている−斯く言う筆者も同じだが−。このことは海外でも大差はなく、香港の自治に関心を持っているのは選挙目当てのどこぞの国の大統領とその仲間くらいだろう。これが現代人の現実だ。だからこそ、カントの自由論は意義がある。結果を恐れることなく、自由を求める香港の人々と連帯し、自由を封殺しようとする試みに抗議する。これこそがカントの教えであり、現代人が学ばなくてはならないことなのだ。だが、残念なことだが、おそらく富と安全を最優先する筆者を含む現代人はカントに学ぶことは出来ず香港の市民を守ることは出来ないだろう。しかし、逆説的ではあるが、そのことがカントの自由論の意義を明るみに出す。なぜなら、もし将来、あらゆる武力が廃棄され、平和で、自由で、平等で、誰一人として貧困や搾取・弾圧・洗脳により脅かされる者がいないような世界が実現したとしたら、人々は、今の時代をカントから学ぶ勇気と知性を持ちえなかった人々の時代と評すると思われるからだ。 了
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