☆ 科学的とは ☆

井出 薫

 人は自分が信じたいことだけを信じると言われることがある。喫煙の害を頑なに否定する喫煙家は、100の論文が喫煙による健康被害を証明していても、1つの論文がそれを否定していると、後者を信じ喫煙が有害であるというのは嘘だと主張する。地球温暖化を誤りだと信じている者は、100の論文が温暖化を証明していても、1の論文が否定すると、それだけを信じる。ワクチンは百害あって一利なしだと信じる嫌ワクチン論者は、多くの報告がワクチンの有効性を示していても、たった一つの例外だけでワクチンの有効性を否定する。こういう頑なな者を、100の論文の存在と論理的な説明で説得しても、なかなか納得しない。斯く言う私自身も自説に固執し、他人の忠告に従わないことがよくある。こういう態度は、あきらかに非科学的な態度だと言ってよい。現代人の多くは科学に絶大な信頼を寄せているが、一方で、こういう非科学的な態度をとることが少なくない。

 科学的であることは容易ではない。そもそも科学的であるとはどういうことか明確な基準があるわけではない。20世紀の論理実証主義や科学哲学は科学と似非科学の境界線を定めようとしたが失敗に終わっている。著名な科学者が非科学的な態度をとり続けることも少なくない。アインシュタインは終生、量子論を不完全な理論だとして代替理論を探したが、失敗に終わっている。当時から量子論は揺るぎない物理学の基礎として大多数の物理学者から認められ、あらゆる実証的な研究がその正しさを示していたことからアインシュタインの態度は頑なで非科学的なものだと指摘しないわけにはいかない。また、科学的であることがよいとは限らない。母親を亡くして悲しんでいる子どもに「お母さんは天国で見守ってくれている」と言って慰めることは悪いことではない。それに対して「天国など何の根拠もない迷信だ」と反論する者がいたら、私たちは非常識で思い遣りのない人間だと考える。科学的に真であることと、善であることは必ずしも一致しない。

 そうは言っても、喫煙の害を否定する者、反温暖化論者、嫌ワクチン論者の主張は科学的とは言えず、そう指摘するだけの根拠があると考えてよい。そして多くの者がそれに同意する。また、これらの問題は悲しんでいる者を慰めるという倫理的・実践的な課題ではなく、科学的に考えるべき問題であることを誰もが承認する。つまり科学的であることの厳密な定義はなくとも、だいたいにおいて、現代人は科学的に考えることができる。実際、愛煙家の多くは喫煙の害を認め、できるだけ本数を減らしたり、軽い種類に変えたりしている。反温暖化論者や嫌ワクチン論者も真摯に議論すれば、自説が根拠に乏しいものであることを認める。つまり「科学的であるとはどういうことか」という問いに対する明確な答えはなくとも、私たちは概ね科学的に考えることができるし、考えていると言ってよい。哲学者はそれでは満足せず「哲学的に徹底的に考え抜け!」などと主張するが、一般の市民としては哲学者の忠告にいちいち耳を傾ける必要はない。哲学者のように深読みしていたら生活が成り立たないし、深読みしすぎて却って間違うことが多い。

 だが問題は残る。喫煙の害、温暖化、ワクチンの有効性については非常に多くの証拠があり、それを理解すること(=科学的に振舞うこと)はさほど難しくない。だが、証拠が乏しく、多数の異なる意見が存在するときには、どう考えればよいか、どう考えれば科学的と言えるかを判断することは容易ではない。新型コロナウィルスなどはその典型的な例の一つだろう。外出規制や休業など強力な規制を取らないと、日本でも感染爆発が起き、数万以上の死者を出した欧米諸国と同程度あるいはそれ以上の被害が出ると主張する専門家がいれば、日本などの東アジアや東南アジアの人々にはすでに新型コロナの免疫があり重症化率は低く、外出規制や休業は不必要だと主張する専門家もいる。欧米とアジアでは同じ新型コロナウィルスでもタイプが異なり、アジアは重症化しにくいタイプで欧米は重症しやすいタイプだった。だから、現状では強力な規制は不要だが欧米のタイプが広がれば強力な規制が必要となると考える者もいる。また、具体的な日々の対策についても意見が分かれる。2メートル間隔があけば問題なしとする者もいれば、2メートルでは不十分とする者もいる。マスクの有効性も、高く評価する者と、大した効果はないとする者がいる。ワクチンの開発や量産が可能となる時期についても意見が分かれる。新型コロナの重症化メカニズムについても統一された見解はないようだ。こういう場合、科学的に考え振舞うにはどうすればよいだろうか。まず、「とりあえず専門家の言うことを信頼する」という姿勢は、この場合、科学的とは言えない。自分の信じたいことだけを信じるという態度になる危険性が強いからだ。つまり、新型コロナでは、自分で考えることが欠かせない。もちろん、それは容易ではない。特に専門性の高い話題ではそうだ。「サイトカインストームが新型コロナの重症化の引き金となる」と言われても、それが正しいかどうかを吟味することは素人には難しい。だからと言って、そこで「私には全く分からない。この人の言うことは信頼できそうだから信じることにする」ではだめだ。ネットなどで他の意見も調べて、どこまで検証された理論なのか、その根拠は何か、などを吟味する必要がある。さもないと、専門家の独善的な意見に振り回されることになる恐れが強い。だが、自分で考えるために必要な情報が無いことも多い。報道はしばしば根拠に乏しい極論を確立した真理であるかのように報じる。また権威に盲従することも多い。こういう場合、どうすれば、科学的と言えるのだろうか。

 まず必要なことは、全てを疑うということだ。ノーベル賞受賞者であろうと、その道の権威で多くの業績を上げてきた者であろうと、その主張は独断的なものが多く、間違っている可能性が低くないことを弁え、妄信しない。そして、まず、確実なことを出発点にする。確実なこととは、たとえば、米国ではすでに(7月10日現在)で300万人を超える感染者が出て、死者は13万人を超えているということだ。このことから、日本に特殊な事情、たとえば日本人にはすでに新型コロナウィルスに対する免疫があるなどの事情が無い限り−そのことが証明されない限りは、油断すれば、同程度あるいはそれ以上の被害が生じる可能性があることが導かれる。但し、その一方で、それは可能性であり必然性ではないことも弁えないとならない。それゆえ、現時点で、日本では緊急事態宣言などは一切不要であるとする主張は正しくないことが分かる。確かに、日本では米国ほどの厳しい都市封鎖を行わなかったにも拘らず、感染者が2万人強、死者千人弱(7月10日現在)に留まっており、また台湾やベトナム、タイ、シンガポールなどでは日本よりさらに人口比で死者が少ないことなどから、日本を含めた東アジア、東南アジア特有の重症化しにくい事情があることは可能性として想定されうる。だが、単に初動の違いで差が生じたということも考えられうるから、日本が米国程度あるいはそれ以上の被害になる可能性を全面的に否定することはできない。あとから、日本には米国のような感染爆発は起きないことが証明されることはあり得る。しかし現時点では米国並みに感染爆発が起きる可能性を否定することはできない。それゆえ、外出規制や休業などの都市封鎖やそれに近い措置を選択肢として残しておくことは必要で、日本では都市封鎖は不要などと断言することは科学的な態度ではない。一方で、2カ月近い緊急事態宣言で経済が大きく傷ついたことも紛れもない事実であり、感染拡大を恐れて、何でもかでも規制をすることもまた科学的な態度ではない。また、「何もしなければ東京で数十万人の死者が出る」などと断定的に語り危機感を煽ることも科学的とは言えない。「特定の数理モデルによれば、そういう可能性がある」と補足説明しなくてはならない。また、三密の回避、手洗い・アルコール消毒、外出時のマスクなどを徹底的しても、感染確率が低くなるだけで感染リスクがゼロになるわけではない。それゆえ感染者を自己責任として非難するのは間違っており科学的な態度ではない。

 このように、科学的に多くの謎がある場合、専門家でも様々な異なる、ときには相対立する意見が存在する場合には、健全な懐疑精神と熟慮、そして確実なことから出発し論理の飛躍を避けることが科学的な態度と言ってよい。確かに、それでは結論が得られないということが多い。その際には、自らの直観又は多数意見に従って行動するしかない。但し、その場合でも、常に誤った判断をした可能性があることを忘れず、方向転換の余地を残しておくことが欠かせない。それが科学的な態度だと言ってよい。


(2020/7/11記)


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